バジルホール艦隊の意外すぎるその後
1816年、琉球にやってきたイギリス艦隊、
アルセスト号とライラ号。
2016年は、それから200年で、沖縄には石碑も建立されました。
その40日余りの滞在の記録は、ライラ号の艦長
バジルホールによって「朝鮮・琉球航海記」にまとめられ
ヨーロッパで大ベストセラーになりました。
琉球人とイギリス人の友情と琉球人の礼儀正しさと
心の温かさが強調された内容ですが、
この航海の後、艦隊がどうなったかは余り知られていません。
今回は、友情と慈愛の艦隊になった船の一隻、
アルセスト号が辿ったその後を紹介します。
清国の虎台を砲撃し喝采を浴びるアルセスト号
琉球に来た二隻の軍艦の内でメインは、アルセスト号であり、
大砲を46門も積んだ堂々たるフリゲート艦。
艦長は、この艦隊の責任者であるマクスウェル大佐でした。
彼は、バジルホールや、クリフォードのような、
ロマンチストではなく、リアリストで、王府の役人を恫喝して
国王との謁見を望み、一度は承諾させています。
琉球を離れてから、半月もしない、1816年の11月
アルセスト号は、清朝政府の許可を得られないままに珠河を
さかのぼり、清国のジャンク船に威嚇射撃を受けました。
原因は、イギリスの使者であるアマースト卿が清朝皇帝に、
三跪九叩頭の礼を取らず、それに怒った清朝がイギリスへの
態度を厳しくしたせいですが、マクスウェルは激怒し、
自ら指揮を取り、珠江沿岸の虎台の大砲を撃破したのです。
アルセスト号は中国側を圧倒したのですが、
わずか、1か月前に、琉球人と別れを惜しんで泣いた人々と
同一人物とは思えない豹変ぶりです。
1817年2月18日、今度はジャスパー海峡で死闘
アルセスト号には、さらに続きがあります。
翌年1817年、2月18日、アルセスト号は、スマトラ南東部の
海岸沖にあるジャスパー海峡で座礁し敵対的な原住民に
襲撃されて応戦し、これを退けているのです。
そして、この時、琉球人が初めて接したイギリス人女性である
ロイ夫人も、勇敢に戦闘に参加して負傷、救助されたものの
イングランドへ戻る船旅の途中で病死しました。
やっぱり、血の気が多かったアルセスト号の乗組員
琉球に来てから、たった2年の間に二度戦闘を経験している
アルセスト号を見ると、やはり、本の中では、穏やかに見える
英国人が、かなり勇敢で乱暴な人であった一端が
垣間見えますね。
一見すると友情と交流の40日ですが、こんな血の気の多い連中を
相手した琉球の役人はかなり疲れたのではないか?と思います。
琉球・沖縄の歴史を紹介しています。
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