見出し画像

日常こそ人生〜体験が教えてくれたこと〜

こんにちは、こんばんは。

スマホの写真整理をしていると、懐かしんでずっと眺めてしまい、気付いたらすごい時間が経過していた、、、よくありますよね?

写真を撮った年月を見ていると、自分が「どれだけの期間でどれだけの経験をしてきたか」が一目瞭然でわかります

ある人にはそれら全ては「非日常」に見えるだろう

しかし、その全ては僕の日常だった

一般的な感覚の「非日常」を求めすぎて、もはや「普通の職場」には戻れなくなった、一人の男の人生を少しだけ深堀ってみようと思う

日常と非日常

いつもと違う道を行く。それだけで日常は非日常に変化する

まず最初に「日常」と「非日常」を定義づけよう

・日常=毎日繰り返される普段の生活
・非日常=普段の生活では体験できないような経験、状況

全人類ほぼこの意味で統一されていていいだろう

日常とは「普段の生活のこと」

朝起きて、歯を磨いて、顔を洗って、朝食を食べて、会社へ行って・・・
家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、寝る→→→最初に戻る

毎日多少のイレギュラーはあるだろうが、大体日常ってこんなもんだろう

例えばこの中に、
「読書」・「筋トレ」・「運動」・「勉強」・「副業」・・・etc
などのいわゆる「欲求」とは別の「やらなくても死にはしない」ことを入れると、それが「習慣」と呼ばれるようになる

ほとんどの人の場合、日常=人生そのものだから、その「習慣」をいかに取り込んでいくかで人生が変わっていくという、とてつもなくシンプルな話を成功者たちは嬉々として語っている

対して非日常とは「日常では体験できないような経験(状況・場面)」

日常が「生活」なのに対し、非日常は「経験・体験」と言い換えられる

分かりやすい非日常体験とは、例えば旅行がそうだろう

いつも見ている景色や人とは一線を隠す体験

しかし今ではそんな非日常であった旅行は、写真や動画、文章でいくらでも
「情報」として入手できる状況だ

では旅行に行って得たいものはなんだろうか?

人との出会い?
美味しい食べもの?
ステキなサービス?
キレイな景色?

キレイな景色を「写真」で見るのと、直に「目」で見るのとはもちろん違う

しかし本当にそれを旅行で求めている人が一体どれほどいるのか

見知らぬ土地に行ったからといって「知らない料理」を食べる人が一体どれほどいるのか?
予測に過ぎないが、ほとんどいないのではなかろうか。

例えば旅行先で「焼肉」を食べるとか、
泊まったホテルでの朝食バイキングで取ってきた料理のほとんどが食べたことある料理だったりとか、、、
※もちろんそれらは悪いことではない。

非日常体験を求めて行った旅行先で、気付いたら日常を求めている
この状況に陥っている方も少なくないはずだ

つまり何が言いたいかと言うと、
「あなたの非日常体験が、企業によってコントロール(誘導)されていないだろうか?」
ということだ

もう少し詳しく話していこう

仕事に疲れたあなたが、非日常を求めて沖縄へ旅行に来たとしよう

「なぜ数ある旅行先から沖縄を選んで来たのか?」と問われた人は大体が「キレイな景色に癒しを求めて」と答える(自己統計。悪しからず)

では質問を「どうやって旅行先を沖縄に決めたのか?」
に変えたらどうだろうか?


察しの良い方は勘付いただろう

要は「企業のマーケティング」だ

旅行会社や各地の観光会社、ホテルチェーンが打ち出すPR(=CMやSNSなどのメディア)情報、言葉

それらにあなたの行動が操作されているのだ

本当に行きたいかどうか
ではなく行きたい気持ちにさせられていやしないか

今絶賛売り出し中のGOTOトラベルや、全国旅行支援が分かりやすい例だ

せっかく頑張って働いて、大切に貯めたお金を使ってきた旅行で、
「クーポンが使えない」
「レストランに行ったら食べたい料理が売り切れていた」
そういう事で残念がって、振り回されていないだろうか?


日本の経済を回すために打ち出されてる施策であるのはもちろん承知しているが、そればかりに目を奪われていると、気づいた時には企業にお金を吸い取られて、満足度の低い旅行になりかねない

目の前のボタンを押すのを一瞬止め、もう一度よく自分に問いてみて欲しい

「本当に今この場所に行きたいから行こうとしているのか?」と。


非日常体験を毎日の暮らしに落とし込む

キレイな海を眺める生活

通常の生活では体験できない事(=非日常)を毎日の生活に落とし込むと、人はどうなるのか?

最初にそれを実践したのが数年前の「一人旅」だった

短期的な旅行でも、長期的な旅でもいい

一度想像してみて欲しい

飛行機に乗ってきた旅先で見る、今まで見たこともないような景色

青い空に白い雲、信じられないほど透明で青い海

見たことない建物や、食べ物、触れたことのない空気や文化

そして出会ったことのない人、話したことのない人に出会う


それが「毎日」続くのだ

帰る場所があっての、一時的な外出

日常を忘れるために旅行する
そんな人も多いのではなかろうか

信じられないほどの奇跡と、感動と、出会いと、ハプニングと、、、

それら全てが日常となっていく
それが旅だった

言ってしまえば「不安定」なのだ
日常であれば、帰る場所があって、家に着けばホッとする

この安心感は何ものにも変えがたい

だが旅にそれは無い

毎日が戦いだ
「寝床の確保」

今日寝るための寝床が無いという体験は正直、普通に生活していたら恐怖でしかない

それを毎日繰り返すのだ

するとどうなるか

「寝床の心配をする必要がない」
という、日常ではごく当たり前過ぎて意識さえすることもない事が、
特別なこと・幸せなことに変わっていく

不安定な生活で磨かれる安定性


旅は毎日がイレギュラーの連続

当たり前だったものが当たり前に無い状態

こんな生活を続けていると、世の中の当たり前がいかに恵まれているかがよく分かる

一番わかりやすいのが「家」

屋根があって、壁がある

安心して寝れる場所がある事がどれだけありがたいか

そして風呂

旅をしていた時は2〜3日入れないなんて当たり前だった

その後入る風呂の気持ち良い事この上ない

食事

言うまでもなく、実家のご飯って最高に美味しいですよね

僕にとって当時の旅は
忘れていた大切何かを思い出し
当たり前だと思っていたものに感謝する

そんなだ感じだ

当時の生活は不安定になったが、心が安定した
ちょっとやそっとのことで動揺しなくなった

電気がつかなくなった
ブレーカーが落ちた
風呂が壊れた
水が出なくなった

普通に生きてたらパニックになる人さえいる状況でも、落ち着いていられる
※対処できるかどうかは置いといて

なんとかなるのだ。

死にはしないとわかっているから。

安定した生活は幸せなのか

当然人によるだろう

どっちも否定する気はない

少なくとも僕にとっては幸せじゃなかった

今でもはっきり覚えている
バイク旅をしている時に頭をよぎった言葉

「あ、おれ生きてる・・・!」

それまで社会人生活を通して、お金や社会保険の面では安定していた

でも一番大切なものを全て犠牲にしていた

「時間」だ

自分の時間全てを犠牲にして、今思えば呼吸することさえ忘れていたような感覚

まるで自分の人生を生きていない

楽しそうに振る舞ってはいたが、多分それは辛そうにして会社の人から小言を言われるのが怖かっただけ

「社会人」という枠で考えれたら確かに自由だったかもしれない

髪型も服装もキレイにしていればどんな状態でも大丈夫だったし(まあ、怒られたり文句言われたりしたこともあったけど)。

でもそれだけ

そのあまりにも退屈で窮屈で安定した日常から自分を解き放ち、ついに非日常へと足を踏み入れた途端、世の中の見え方が変わった

呼吸をしてる
生きてる
何も持たないのがこんなに気持ち良くて、清々しいものだったと知った
いや、思い出した
それはまるで子供の頃に戻った感覚
学生よりもっと前
何をして遊ぼうか考えるのに夢中だった頃
「生きるのに必死」ではなく、「生きるのに夢中」
夢見心地

安定を捨て、非日常へと足を踏み入れたらもう戻れない

あの気持ち良さ、楽しさを知ってしまった

あとは突き進むだけ

明日どうなるかなんてわからない

流れに身を任せて、毎日を過ごすだけ

幸せは人それぞれ

それでいいのだ


非日常は教科書のような存在

新しいことをたくさん教えてくれる

楽しさ
厳しさ
優しさ etc・・・

今までの自分の行動を悔いたことは無い
悔しい思いをしたことは多々あるけれど

全て自分の心に従った結果だ
後悔はない

全てを正解にしていく
これからの自分の行いで。


もしこれを見ている方がいたら、ぜひそんな体験をして欲しいと願う

長期の旅をしろと言うつもりはない

短期でいい
1日でもいい
「人に語れる体験」をぜひたくさんして欲しいと思う

こんな楽しい事があった
あそこはこんな美しい場所だった
そこに行ったらこんな気分になった
あの場所のあの食べ物が最高に美味しかった
あの土地の人にこんな良くしてもらった
こんな経験をさせてもらった

どんなことでもいい
少年の頃のように目をキラキラさせて
あなたの非日常を語って欲しい

もし機会があればそんな話をぜひ聞かせてもらいたい

そんな日が来ること願い

本日は終了

それではまた!

いいなと思ったら応援しよう!