無責任に逃げるのか
本日は久しぶりに本の紹介をします。
年末年始もいろいろな分厚い本など挑戦したのですが、なかなか「これっ」というものがありませんでした。
興味深いタイトルで頑張って読んでいたのですがなかなか頭に入ってこない。
読み進めていくと、例え話かなんかでワクチンの話題になり、どうも著者が「ワクチン推進派」で「ワクチンに疑問を呈する方がおかしい」みたいなことが書いてあり、がっかりしたものもあります。
ワクチンとは関係のない本なんですけどね。
頭に入ってこないのも、根本の思想が違うからなのでしょうか。
「ワクチンに疑問を呈するのはおかしい」みたいな考え方はさすがに著者の頭は硬すぎており、相容れないのかもしれません。
それでもいろんな意見を知った方が良いと少し読み進めたのですが、やはり頭に入ってこず、時間がもったいないので途中で放り投げました。
途中で本を読むのをやめるなんてそうそうないんですけどね。
たぶん初めて、かもしれません。
ちなみにその本は『MORAL 善悪と道徳の人類史』。
「行き過ぎた正義は「悪」になるのか?」なんて書いてあるからおもしろそうだなと思ったのですけどね。超がっかりでした。
タイトルだとか帯に書かれている宣伝文句は注意が必要です。
前置きはこの辺にしておいて、今回ご紹介する本はこれです。
底が抜けた国 自浄能力を失った日本は再生できるのか? / 山崎 雅弘
今の日本のおかしさなどが事細かに書かれていますが、結構年号とか歴史的なことも書かれていて、社会・歴史が大の苦手な自分はすんなり頭に入ってこない部分も正直ありました。
それでもうんうんうなずけるところは多数あり、また後半の結構良いことが書かれていたのですね。
一文を抜粋してもあまり伝わらないので、ちょっと長いのですが引用させていただきます。
---
主体性を放棄することで得られる、精神的な負担の軽減
先の戦争当時の大日本帝国の国民(臣民)が、何かおかしいと直感的に感じてもそれを口に出さず、大勢に従い続けた理由は一つではなく、複合的なものでした。
軍の憲兵や特高警察による監視と弾圧、政府に従属するメディアが作り出す「世論」とそれが作り出す同調圧力の「空気」なども、国民に服従を強いた理由として挙げられますが、これとは別に、国民自身の「内面」にも、理由はあったのではないかと思います。
個人として物事を判断し、自分の信じた道を進むよりも、思考や行動の主体性を放棄して大勢に従う方が「心理的に楽だ」というのは、無視できない現実です。
なぜ「心理的に楽」になるかと言えば、そこには責任も葛藤も存在しないからです。
上位者や集団の判断に身を委ねて従うことにすれば、何が正しくて何が間違いなのかという難しい問題と向き合う必要がなくなり、上位者や集団が正しいなら、それに従う自分も正しいはずだという図式に、思考を単純化できます。
そして、もし上位者や集団の判断が間違いであったと判明しても、自分はただ上位者や集団に従っただけなので、その間違った判断が引き起こした結果についても自分に責任はない、という言い逃れの道をあらかじめ確保できます。
いったん「心理的に楽な道」に進む選択肢を選んでしまうと、容易にはそこから引き返せなくなります。上位者や集団に従う態度をとった後で、それとは違う行動に態度を翻せば、上位者や集団から見て許しがたい「裏切り者」になってしまうからです。
また、上位者や集団に従う「心理的に楽な道」を選んだ人間にとって、そこに加わらない人間や、一度は加わったものの離反した人間は、集団内の秩序を乱す危険な存在です。それを放置すれば、集団からの離反という「裏切りの思想」が周囲の人間に連鎖的に波及あるいは「感染」する恐れがあるからです。
そのため、「心理的に楽な道」を選んだ人間は徒党を組んで、集団に加わらない人間や集団から離反した人間を攻撃します。その攻撃が激烈で容赦ないものであるほど、他の人間に対する「見せしめ」となり、新たな離反者の出現を回避できます。
自らの意志で「心理的に楽な道」を選んだ人間は、独立した思考を持つ「個人」であることを捨てています。孤独で無力な「個人」でいるよりは、大きくて力の強い上位者や集団に服従する「兵隊」になった方が安全だと、彼らは考えます。
しかしその道は本当に安全でしょうか?
上位者や集団に従うことが、当座の「保身」だとの考え方が、日本社会では今も昔も根強いように思いますが、実際にはそれは「短期の保身」です。一年や三年程度のスパンで保身を考えるなら、そのような判断も「あり」かもしれません。
けれども五年や十年、三十年、五十年という長いスパンで、過去の歴史を随時参照しながら物事を考える人なら、「短期の保身」とは泡沫(うたかた)の夢にすぎないと気づくはずです。
それとは違う「長期の保身」とは、冷静に全体の状況を観察し、間違った方向に皆を連れて行こうとする指導者や群衆に呑み込まれず、このまま付いていくのは危険だと確信したらすぐにでもその場を離れて安全な場所を見つけ、そこに留まることです。
今の日本を生きる我々の眼前には、そんな分かれ道が存在しています。
---
まさに新型コロナワクチンの時の状況にぴったりと当てはまります。
自分で深く考えもせず、国や専門家もどきの言うことに従った人が多かったですね。
そして『「心理的に楽な道」を選んだ人間は徒党を組んで、集団に加わらない人間や集団から離反した人間を攻撃します。』とあるように、ワクチンに疑問を呈する人たちを汚い言葉で罵り、差別し、攻撃していました。
変人扱い、非国民扱いでしたよね。
結構なことをしてきたのに、今じゃまるでそんなことをしてこなかったのような素振りですけど。
未接種者を「ゴキブリ」呼ばわりした、女医のジャーナリストもどきもいました。
上記で紹介した構図は、国民全体にも言えることなのですが、医師だけにも当てはめて言うこともできます。
国や学会が推奨してるからと、多くの医者が接種を強く勧めていました。
機序とか難しいこと抜きにしても、普通に考えて新薬を国民の大半に同時に投与しようとすることが異常です。
機序についてもちょっと考えれば危ないことはわかるのに。
それを多くの医者もどきは上位者の判断に身を委ねて従ったのです。
開業医にいたっては、「接種事業をすればお金が儲かる」という判断で動いた人もいるでしょうけど。
そこの部分だけは「自分の判断」でしょうけど、他の部分はただただ何も考えず上位者にしたがっただけです。
そしてミソはここです。
『もし上位者や集団の判断が間違いであったと判明しても、自分はただ上位者や集団に従っただけなので、その間違った判断が引き起こした結果についても自分に責任はない、という言い逃れの道をあらかじめ確保できます。』
ワクチン打って患者さんがどうなろうと、国や学会が推奨していたことなんだから自分には責任がない、と言い逃れできるのですね。
そして報酬だけが手に入る。
こんなおいしい話はありません。
確かにワクチン打つ人は自分で「同意」のサインをしています。
そして国や学会が強く推奨していました。
だからワクチンを打つ医師には責任がないのか?
そうじゃないでしょ。
注射を打つという重大性をまったく認識していない。
「自分が手を下す」という重大性を認識していません。
確かに法律的には「責任がない」と判断されるのでしょう。
でも、自分が接種した患者さんが大きな副作用を引き起こしたり、あるいは亡くなってしまったとして、何も感じないのでしょうか?
心のレベルで、魂のレベルで何も感じないのでしょうか?
どうせそういう医師もどきは「ワクチンのせいではない」と思い込むのでしょうけど、そんなのただただ逃げているだけです。
「ワクチンのせいかもしれない」と少しでも考えられないのであれば、それは科学者でもなんでもないし、医者である資格はありません。
単なる医者もどきです。
普通の心の持ち主なら、自分がワクチン打った直後に患者さんが亡くなってしまったら、その方を一生忘れることはできませんね。
そして、1回目、2回目程度でワクチンを打つことをやめる判断をされた方々。
当時は追加接種がまだまだ推奨されていたときでしたし、ワクチンを打たないのはおかしい人扱いの時代でしたから(今でも?)、接種を途中でやめる判断をされたのは勇気ある行動だったと思います。
「裏切り者」呼ばわりされ、攻撃されるリスクがあったのですから。
それでも自分で考え、自分の道を進んだのです。
自分で考えることを捨てなかった人たちです。
きっとこういう方たちは職場などでの強い同調圧力で打たざるを得なかった部分も大きかったのではないでしょうか。
あのときの同調圧力は異常でしたから。
ですから、1回目、2回目接種の時は、アレルギー体質のある人には診断書を作成し協力していたこともあります。
しかし3回目以上となるとさすがに「少しは自分で戦え」となります。
「1回目2回目接種でアレルギーが出たから」とかハッタリでもいいので接種を回避することはできたはずです。
完全未接種の人は最初からこれで回避していた人もいるくらいなのですから。
診断書なんぞなくても、強要してくる人に「アレルギーが出たから」と自分で主張し回避することは可能です。
なんでもかんでも他人に頼るのではなく、自分で努力することも必要です。
ですから3回目接種以降は診断書は書かないことにしました。
少しは自分で考え自分で戦う術を身につけないとこの先、生き残れませんからね。
ちなみに自分だったら「アレルギーが出たから」と主張しても強要してきた場合は、「アレルギーが出た場合の責任をすべて取るという誓約書を書け」と相手に求めるでしょうね。
できれば弁護士等も交えて正式な文書として残しておくとなお良しですね。
あるいはワクチンの安全性、リスクについて事細かに強要してきた人本人に説明を求めますね。
かなり面倒くさい人間になって戦います。
さて、上記の本からもう一カ所紹介します。
---
しかし、政権与党が深刻な不正に手を染めている事実や疑惑が明らかになっている時に「不正に手を染め、それを隠ぺいする権力側」と「不正を批判する市民側」のどちらにもつかない、バランスの取れた「中道」という立場がありうるでしょうか?
そこで「不正を擁護する側にも、不正を批判する側にも立たない立場」とは、中立ではなく、単に「不正を黙認する立場」でしかありません。本書の第二章で紹介した「偽の中立と真の中立」の図が示すように、「不正をする者」と「不正を批判する者」のちょうど中間に立つ「中道」は、しばしば「いじめの傍観者」のような立場を意味します。
このように、一見すると「特定のイデオロギーに偏らないバランスのとれた立場」に見える「中道」も、状況によっては単に「現状の不正や横暴を傍観し黙認する、当事者意識を欠いた無責任なポジション」であることも多いのです。
---
これもまた医者に当てはまることです。
ワクチンの害に薄々気づいている医者は結構いると思います。さすがに。
しかし何も主張しない。
裏切り者扱い、変態扱いされるのが怖いのでしょうね。
おおっぴらには、賛成も反対もしないで逃げ続けています。
別に街頭で演説しろとか、デモや集会に参加しろとか、SNSで発信しろとか、ブログ書けとか言っているわけではありません。
大事な自分の患者さんにだけでも自分の考えを表明してはどうなのでしょうか?
そこでもちっちゃい医者は、「患者さんに言ったら(自分がワクチンに疑問を呈しているという)噂があっという間に広がってしまう」と怯えて何も言えないんですね。
「当事者意識を欠いた無責任なポジション」に居座っている医者もどきは結構いると思います。
医者だったらさ~勇気出して言えよ。
患者さんの健康を守るのが仕事だろ?
自分の患者さんだけと言わず、国民の健康・命を守るのが使命だろ?
むすっと黙ってないで何か主張しろって。
気づいていることがあれば、それを隠さないで言えって。
あんたが黙っているせいで、今もどこかで誰かが犠牲になっているかもしれないというのに。
つまらない医者です。
当たり障りなくやっていても食っていけるのが医者です。
医師免許は便利ですね。
薬バンバン出したり、ワクチンバンバン打って健康被害を多く出した方が評価されるのが医者です。
メディアに出ていたワクチン推奨の専門家もどきが栄転していたりしますからね。
医者という職業は不条理です。
患者さんの事を本気で考えた医療をすると変人扱いされる始末なのですから。
まぁ自分はなんのしがらみもないので、自分の信念を貫き通し自分の道を進みますけど。
職業の「医者」として成功する方法は簡単です。
自分で考えることをやめ、製薬会社の言いなりになり、ガイドラインにきっちり治療をし、国や学会が進めることに疑問を持たずに従う。
ただそれだけです。
「自分で考えることをやめる」そこがポイントです。
それでもやっていけるのが医者です。
周囲がすべてレールを敷いてくれていますからね。
そうすれば周りからも評価され(使える人間だ、ってだけですけどね)、それなりの肩書・収入も得られ、メディアにも呼ばれ、外面は充実した人生が送れるでしょう。
でもそんなのは自分からしたら「医者もどき」です。
中身がつまらなすぎる。
従順な医者が評価され、特に西洋医学一辺倒だとなお良し。
一方でちょっと(?)外れたことを発言したりやったりすると、どこからも相手にされず変人扱い。
あら探しをされ、何か問題が起きれば(起こされた?)、「反ワク」というレッテルを強調され世間にさらされる。
メディアもクソです。
自分はこんな偉そうなことを言える立場ではないのですが、こんなエラそうなことを言いたくなっちゃうくらい医者の世界は腐敗していると感じます。特にワクチンの件でそれがはっきりしました。
自分も立派な医者とは言えませんしまだまだ修行が足りませんが、「(本物の)医者」としての根底にある大事な心であったり、本物の医者であり続けようとする気持ちは忘れないようにしたいです。
※極端なことを書いてきましたが、立派なお医者様も多くいますのであしからず。
※上記で紹介した本の著者、以前も紹介したことがありました(おすすめの書 2023年8月29日)。
この国の同調圧力 / 山崎雅弘
今読み返してもいいことが結構書かれています。
自分のブログが、じゃなくてこの本が、ですよ。