No.731 八介のこと思い出す季節かな
明日、12月14日は、今を遡ること320年の1702年(元禄15年)に決行された「赤穂浪士討ち入りの日」(「忠臣蔵の日」)です。
その仇討ちの中心人物は、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助良雄ですが、この内蔵助の家に、以前、下僕の八介(八助?)なる人物が仕えていたそうです。これが、なかなか気概・気骨のある男なのです。2年前に一度取り上げたことのあるお話なのですが、再びお付き合いください。
八介の事は、赤穂浪士の討ち入り事件から約90年後に発行された『近世畸人伝』(伴高蹊著、1790年刊)という伝記の巻二「大石氏僕」の中に記されています。活字としては『近世畸人伝/続近世畸人伝』(東洋文庫202、平凡社、昭和47年1月刊)があり、私はこの本でこの話を知りました。次のようなあらすじでした。
大石内蔵助が、赤穂の城から出て暫くの間は、城下にいながら京へ上る支度をしていました。ある日、同じく城下に居て、かつて使っていた下僕の八介が、内蔵助に面会を求めてやって来てこう言いました。
「我も御供して京へまゐり侍らんを、今は老(い)はてぬれば心にもまかせず。これは御対面たまはる限(り)ならんと、御名残(り)いはんかたなし。たゞし何にまれ御かたみの物をたまはらば、身のあらん限(り)御傍に侍る心地ならん。」
内蔵助はうなずいて、「なるほどもっともじゃ。何か形見にとらせよう。」と言ってあたりを見回しますが、身辺の調度品の半分は既に京都に送り、残る半分も荷造りを終えており、やれる物が何もありません。硯箱が一つあったので開けてみると、「金弐拾片ばかり」(金約20枚?)があったといいます。
内蔵助が、
「せめて、これを受け取ってくれ。」
と言って与えたところ、八介は大いに怒ってすぐさま投げ返し、こう言ったそうです。
「是が何のかたみぞ、身こそ賎しけれ、心はさばかり下らんや。此(の)たび殿の不意になくならせ給へるは、吾等ごときすら限(り)なく悲しく口をしきに、おめおめと城を明(け)て、はひ出る心にくらべらるゝか。今はかたみもほしからず。」
と言って飛び出ようとしたので良雄は謝り、八介を押し止めて言いました。
「いとことわり也、我あやまてりあやまてり。あまりに与ふるものなきゆゑの事ぞ。今おもひよりたること有(り)とて、墨押(し)すり、ありあふ紙引(き)ひろげて、堤の上に編笠著たる士の、奴一人つれたるかたを書(き)て、是はおぼえたるや、わかくて江戸に在(り)し日、汝をつれて吉原の花街へかよひし道のさま也。是はかたみともなりなんや。」
すると、八介は大変喜んで、
「これこれ、これに勝る御形見はございません。その時は、こうでございましたなあ、ああでございましたなあ。」
と昔話をして、泣き泣きいとまごいをしたとあります。
筆者の伴高蹊は、次のようにこの話を結びます。
「義士の奴に朴実清廉の者有(り)けるは、美談とすべし。」
「朴実清廉」とは、「素朴にして誠実な人柄で、心が清く正しく、物欲などで心が動かされないような人物」のことを言うのでしょうか。私は、八介が大石内蔵助良雄の下僕だったから有名になったのではなく、下僕・八介のゆえに、大石内蔵助という男が、より一層名を上げたのではないかと、この話を読んで思いました。
「天晴れ八介!」と大声で叫んでやりたい程、私には心のスカッとする話でした。
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」
「極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人」
大石内蔵助は、44歳の若さで逝きました。
※画像は、『近世畸人伝』(伴高蹊著、1790年刊)中の挿絵です。