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写真のように 第12回 フェティッシュの矛先 写真集評 清水裕貴『岸』(赤々舎)

写真の季節
日本では、毎年10月から12月が写真集の季節とされている。年末がいわゆる写真賞の賞レースの締め切りで、木村伊兵衛写真賞、東川賞、日本写真協会賞、林忠彦賞といった昭和・平成初期から存続する写真作家賞がこの時期一斉に締め切りを迎える。これに合わせて若手の写真集がどっととまではいかないが、比較的多めに出版されるのが日本写真界の歳時記的な通例である。写真集はそれほど多く部数を刷る図書ではないし、流通も限定されるので、一般の書店で見かけることはあまりない。新刊で扱いがあるのは、写真集や美術書の専門書店や良心的な個人経営の書店などに限られるのだが、それでもナディフ(美術書専門書店)や青山ブックセンター等で新刊を見かければ、季節の果物を見るが如く胸が騒ぐ。写真好きにとり、秋冬はそういう季節なのだ。

今年も個人的に気になる話題の写真集が数冊あった。うち一冊は、前回(写真集のように 第11回)で簡単に触れたうつゆみこさんの写真集(『Wunderkammer』、ふげん社)だが、うつさんはもはや新人ではなくベテランで写真集も2冊目。もちろん力量は感じるし、うつさんの狂った個性(褒め言葉です)も存分に現れているのだが、あまりにチートすぎて読後に追う言葉が見つからない。創造力の余白を塗りつぶす強烈なバイアスというか、ビジュアルが強すぎて脳の視覚領域をハッキングをされる。せいぜい「あとは世界に向かって羽ばたいてください」程度しか送る言葉が出てこない。ナチスの例を引くまでもなく、ビジュアルにはある種恐ろしい部分があるな、とつくづく思う。というわけで、今回は以前から気になっている清水裕貴さんの初写真集、『岸』(赤々舎) を取り上げたい。うつさんの写真集やテキスト(こちらが実は非常におもしろいのだが)は、あらためて別の機会に。

fig.01 清水裕貴『岸』(赤々舎、2023年)表紙(右)、写真集の中面には数ページに1点、文章が添えられている(左)

不可解な存在
清水裕貴は1984年生まれ。武蔵野美術大学卒業の写真家で小説家だ。文学作家としての顔を持つのがこの人の特徴で、すでに著作として数冊の小説が刊行されている。撮った写真を発想の起点として物語を紡ぎ出し、写真と文章を往還するサーキュレーションの中に創作が生まれる。その創作とは、主にテキストのほうに比重があるようなのだが、創作の着想は写真から得ているという。今回取り上げる『岸』は印刷製本された“刷り物”としての写真だが、過去は手製本の写真集もあって、例えば2022年に品川のPGIで開催された展示「微睡み硝子」に合わせて制作された同名の写真集は、昨年の木村伊兵衛写真賞の候補作品にも挙げられた。また、2023年に新井薬師の35分で開催された「よみがえりの川」でも自費制作の写真集が販売されていた。これらを読むと、清水裕貴という作家は、写真と小説が補完関係になってひとつの“文学”を形成しているようである。こう書くと簡単なように思えるが、実際に写真作品を見て、そこに添えられている文章を読んでもなかなか理解しづらい部分がある。例えば、森山大道や石内都は、素晴らしいテキストを書く作家でもあるが、写真と文学的な表現はそれぞれ独立していて補完関係にはない。清水の場合は、写真と小説が表現として一体化していて切り離せないように思える。勿論、小説は小説集として独立はしているのだが、例えば写真展で言葉が添えられると、奇妙にも一体感を醸し始める。これが何とも独特なのだ。

ここで告白を。筆者が清水の作品を理解できるようになったのは最近のことだ。清水とは2016年の東川写真祭のポートフォリオレビューで、出会っている。彼女の作品を見せてもらった私は、文章と写真の二刀流で表現する意味が理解できなかった。たしか、「どちらかを選べ」とか「写真は『クウネル』(雑誌)みたいだ」とかずいぶんと失礼な事を申し上げたと思う。大谷翔平の二刀流を無謀な挑戦と考えるようなものだ。われながら、愚かだなと思う。以来、ポートフォリオレビューには参加しなくなった。自分の読みが外れて自信がなくなったとか、才能を見逃してあとで後悔の念に駆られたという話ではないが、若い人の進むべき道を曲げる可能性がポートフォリオレビューにはあるので、自分のような粗忽な人間には向いていないと気付いたからだ。

fig.02 ギャラリーPGIで開催された個展「微睡み硝子」(2022年)に合わせて制作した著者自作の手製本『微睡み硝子』(右、中)と、スタジオ35分で開催された個展「よみがえりの川」(2023年)会場で販売された同じく手製本『よみがえりの川』(右)

「溶ける指」
清水の創作が理解できるようになったのは、それから3年ほどして、雑誌『文藝』に掲載された「溶ける指」という小説(単行本未収録)を読んでからだ。初小説集『ここは水のほとり』(新潮社)を発売した頃に発表された、とある古いお屋敷の窓硝子を語り部に、建物の周囲で起きている事象を描き出した(描写した?)情景短編である。数多くの要素を破綻なくまとめた文章構成力にまず驚いた。そして、事物に対するフェティッシュな感覚をストレートに描いているところが独特だと思った。このフェティッシュな表現は清水の写真作品にも見られるもので、例えば「微睡み硝子」でネガにわざと黴を生えさせてから印画紙にプリントしたり、「よみがえりの川」で布に写真の画像を転写するところに片鱗が伺える。「溶ける指」では、情景の語り部である屋敷の窓硝子に生えた黴がアルコール消毒で消える場面がそうだった。このフェティッシュな感覚は小さくはあるが、目に見えない小さな酵母がワインを醸造するように、のちのち何かに変化する予感をはらんでいて、これがこの人の持ち味なのかなと思った。おそらくは、そのフェティッシュの由来は写真にあるのだろうな、と読後に感じた。実際に、その後の展示「微睡み硝子」と「よみがえりの川」を見て、その考えがあながちずれていなくてよかったと思った(安堵)。

もうひとつ、「溶ける指」を読んで理解したことがあった。それは、主役と呼べる存在が描かれていないことだ。文章の構造として、形式的には人間の営みと情景を大判カメラのピントグラスのように映す=眺めている屋敷の窓硝子が語り部に設定されてはいるが、主役感は薄い。登場人物も、情景も、それらの存在と意識は希薄に描かれている。これは写真そのものだなと思った。清水の写真がそうなのではなく、一般論としてどのような写真にも画面の中に主役は存在しないという事実にいまさらながら気付かされたのだ。風景写真も然り、ポートレートにしても被写体以外に撮影者の存在が濃厚に写っていてどちらが主役とは言い難い。写真とは主役が存在しない演劇であり、実際に写真の中に主役は存在しない。

fig.03 文芸誌『文藝』2019年冬号(左)に掲載された清水裕貴の短編「溶ける指」(中)。『岸』の装幀は横開きで、堅紙を使わないしなやかな造本になっていて手で持つと腰がないのでへなへなとしなる(右)

フェティッシュの矛先
『岸』には、清水のフェティッシュなイメージにあふれている。僕が東川で見た写真も納められていた。突きつけられた証拠である7年前の写真をいま見ると、写真から何かが染み出してくる感覚に襲われる。それは不穏さをはらんでいながら、どこか心地よい感覚がある。時間を掛けてゆっくりと利いてくる毒のようにも思える。もちろん、クウネルの写真とは大きく違っていた。あと、写真集ががっちりとした装幀ではなく、腰がないへなへなな、いわば弱々しいところも良いと思った。ちなみに手製本時代の写真集も弱々な製本で、これは一つの主張なのかなと思う。ガチでやってます感を見せないところは、団塊ジュニア以後にあたる世代の美意識かなとも思う。

美意識といえば、清水のフェティッシュの矛先は茫漠としているが、戦うべきものに向けていると思った。例えば、弱々な写真集はかつて彼女を認めなかった者の心臓を確実に貫いたし、そういう戦い方をするという宣言は伝わった。それは知性による知性のための戦いへ挑む姿勢と言えるかもしれない。その戦いには、しなやかな思考が必要だ。こういう人達が、例えば福島原発の汚染水について少しづつでも真剣に考え続ける強さを持ち続けてくれるのではないかと、ふた回り上の世代である筆者は期待してしまう。などと結局は世代論になってしまうのはズルいよなと思いつつ、「写真と文学の問題」にひとつの回答を示した『微睡み硝子』『よみがえりの川』『岸』等の清水裕貴の仕事には密かに賛辞を送りたい。 (了)


fig.04 『岸』に収録された筆者が7年前に東川町国際写真フェスティバルで見て写真集で再会した作品

作家プロフィール
清水裕貴(しみず・ゆき)
1984年千葉県生まれ。2007年、武蔵野美術大学映像学科卒業。2011年、1_Wallグランプリ受賞。2016年,三木淳賞受賞。2017年から小説の執筆を開始。2018年、新潮社「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞。小説に『ここは夜の水のほとり』(新潮社、2019年)、『花盛りの椅子』(集英社、2022年)、『海は地下室に眠る』(KADOKAWA、2023年)がある。2023年、初写真集『岸』(赤々舎)を出版。

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