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71 沖縄では、「虹の色は二色」だった

 Margaret  Atwoodはカナダの小説家が、「古代エジプト人は砂をあらわす50種類の言葉を持っていて、エスキモーは雪をあらわす100種類の言葉を持っていたと読んだことがある」と述べています。人によって、または研究者によって、砂漠に関する用語が3000種類以上という研究者もいるし、エスキモー(イヌイット)には地域別に60個以上、100以上という報告もいます。

 人類学者のフランツ・ボアスの調査では正確には覚えてませんが55個(要確認)ほどといいます。雪のことばをどのように分類するかというと以下のような調子です。
「地面の雪(snow on the ground)」は「アプート(aput)」
・「降る雪(falling snow)」は「クァナ(qana)」
・「地吹雪(drifting snow)」は「ピクサポク(piqsirpoq)」
・「吹き溜まり(a snow drift)」は「キムクスク(qimuqsuq)」
言語人類学者Benjamin Lee Whorfの調査では、
・「降る雪(falling snow)」
・「地面の雪(snow on the ground)」
・「凍った雪(snow packed hard like ice)」
・「ぬかるんだ雪(slushy snow)」
・「風に舞う雪(wind-driven flying snow)」
 
などです。この他、

 アマゾンのジャングルのもっとも奥深いところに住んでいる有名なヤノマミ族には、雨に関する言葉が50種類以上あるそうです。アルマジロの雨、短い雨、紅い花の雨、川を叩く雨、木の匂いの雨などなどです。そして、鬱蒼なジャングルの中で住んでいながら、ジャングルという言葉がありません。ジャングルとは抽象語で、部族社会には抽象語が少なく、どちらかというと具体語(モノの名前)が多いですね。よく「個人の能力とは抽象能力だ」といわれますが、こういう指摘は、表現に気をつけないといけませんが、文明社会に特徴的に見られる現象といえます。だから、森の中の草木に関する名称は豊富にありますが、それを総称する「森」を指す言葉がないわけです。「自然」という言葉も「幸せ」という言葉もなかなかないですね。

 エチオピア北部のボディ族や隣接するヌアー族は牛牧畜民で、牛の名前が実に豊富に存在します。数百種類があります。牛の角の形、皮膚の斑点の形や色の組み合わせによって、更にその組み合わせによって実に豊富な名前が存在します。

出典は、表題の福井勝義の研究書

 物の名前は実に奥が深いですね。ボディ族にとって、「黒色・灰色・空の色・雨水の透明な色」はみんな同じ色です。なかなか面白いので興味ある方は上の本を読んでみてください。かなり複雑な思考経路をたどることになるので、残念ながらここでは説明できません。残念です。

 タイトルのことを説明しなければなりませんね。虹は何色でしょうか?今の日本人は当然七色といいますね? でも、虹が何色かは各社会が決める約束事に過ぎません。日本は明治初期の新教育の教科書(西洋の教科書をコピー)から七色と言っているのであって、明治の前から七色といっていたわけではないはずです。新しい根拠が見つかったら修正します。ので、お気づきの点がありましたら教えてください。
 常見純一という跡見女子大の人類学者がいました。彼が1965年に沖縄の安波部落(山原)での調査報告で「安波では、虹の色が2色で赤と青だ」と言っています。今のヨーロッパでは5色という国も多いですが、7色だという国はなかなか確認できません。明治の知識人たちがどの社会のことを真似していたのか確認することが僕の力ではできませんでした。アメリカのホピーインディアンは3色といいます。2色だ、3色だ、5色だ、6色だというのが多く、7色と説明するところは日本と旧日本の植民地の韓国と中国(多分一部のみ?)くらいですね。虹の色が線で区切られているわけではなく、人間が言葉で線を引くから分けられるわけです。

 じゃ、以上の例から、言葉の何がいえるでしょう。まず、前回いったように「言葉とは呪縛」とは少しは理解できたかと思います。すべての人間は自分の言葉に徹底的に縛れれた生きるしかない動物なのです。ド変態や問題児が生まれたり、暴力に走るけしからぬ父親が、なぜあんなひどい暴力をふるのかというと、彼らには暴力や蛮行そのものが言葉だからです。表現したいけど、言葉が未熟で表現することができずもどかしいので、つい拳が出るわけです。彼らには拳こそ言葉なのです。私たちがちゃんと説明するように、彼らは拳で会話しているつもりになってしまうわけです。まあ、いろいろな治療法があるとは思いますが、最も根本的な処方箋は「言葉の欠如」をちゃんと認識させることと僕は信じています。

 そして、最も重要なのは、「なにかいいたいのがあるから喋る」といっても言葉がなければ表現することができない。ということです。「言葉がないのに言いたいことが、うまれるはずがありません」。「言いたいことが先にあるのではなく、言葉が言いたいことを制限する」のです。
 すべての人間は例外なく、全員言葉に呪われた動物です。徹底的に言葉に縛られて「思考する」しかない存在です。65億の人々、みんな一緒です。言葉を持たない野生児は別ですが、言葉を持つ人間はみんな同じ仕組みという意味です。

 ボディ族のような豊富な牛の名称を持っているはずがない日本人が「特定の色と模様を持った牛を表現することができるでしょうか?」。特定の牛を「表現したい」という発想が生まれるはずがないでしょう。日本人は日本人の言葉に縛られているから、「言いたいこと」が生まれてこない「はず」ですね。日本語に束縛されているので、ボデイ族の牛の説明が発想として出てこれないのです。言い換えると、角が外側に大きく伸びて、「毛色が白で黒の斑点がお尻と頭の方にある雄牛」を「言い表したい」と思う気持ちそのものが沸かない・沸くはずがないということです。

 言葉の成長を邪魔するゲームやテレビ視聴を無制限に許すと、子どもは確実に「悲惨な人性」を送ることになるでしょう。恐ろしくないですか?


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