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㊾ 『韓国が嫌いで』
今、「JPNタイムス」というチャンネルで『韓国が嫌いで』という本とその映画版の話を発見しました。素晴らしい正鵠を射る内容と思います。⑬分程度の短い映像なので、韓国社会に幻想をいだいている若い女性に特に見てもらいたいと思います。
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僕がここで書いているような内容は、『韓国が嫌いで』の根幹になる部分だろうと思います。まだ、本を読んだり映画を見たわけではないですが、僕には直感的にわかります。ただ、小説では、「悲運な女子」が主人公として選ばれているようですが、僕は悲運な立場では決してないと思います。むしろ、僕は自分から「悲運な人になろう」と頑張ってきた人物でした。こんなことを書く際は悲運な人たちに十分配慮する必要があるので表現に気をつけますが、万が一誤りがあっても本心は書く主体に関する話なのでご理解を願いたいと思います。せっかく、悲運な人の話が出たので少しばかり私事をちょっとだけ紹介させてください。僕は中流家庭の子供だったと思います。保守系の純韓国的(むしろ純朝鮮儒教的な)な家庭雰囲気でした。周りの同級生から「おじいさん」と呼ばれていたから体は少年、頭は儒学徒のような感じだったでしょう。同級生をみると「礼儀作法ができてないな」と少年ながら考えたりしていたわけです^^。韓国戦争後のまだ間もない時期だったから、みんな「生きる」ことに必死だったと思います。
家庭の外は混沌としていて、この混沌たる世界が朴正煕大統領のお陰様でみるみる内に豊かになっていくのを感じてました。僕はいわゆる大転換期に少年時代を過ごしていたので韓国社会の変化の様子が観察できたと思います。これは後出しジャンケン的な話ですが、僕には「時代を読む、人を読む」上では極めて重要なきっかけとなっていると思います。
そして、僕自身も「破壊者」になるための努力をしていました。社会の矛盾と戦うには「模範生」の仮面を脱ぎ捨てる必要があったので、自らの「努力でアホになろう」「みんなを悲しめよう」と頑張ってきました。詳しくは書きませんが、僕は大学進学を諦めてました。自分の人生を徹底的に壊してみようと頑張ってました。そのときに悟ったのがあります。「あ!人間はこのような形で馬鹿になるんだな」と自覚してました。このときの経験を授業中語ったりしています。日本の学生はほとんどお地蔵さんのような、能面を被ったような、無表情しか見せません。積極的な反応もほとんどみせませんが研究室とかでは「面白かったです」とまたどう仕様もない反応を聞かせてくれます。
自慢ではありませんが、大学では問題児でした。ミッション系の大学だったので、チャップル(礼拝)が義務だったり、聖書の授業も必修項目でした。最初の1回目は、様子がわからず教室に入ってしまいましたが、それ以降は一切入っていません。それでも、卒業判定時に「合格」判定が出たので僕は大学に抗議し「抵抗したのになぜ?」と戦いました。このときの経緯を書いた文章は今でも持っています。韓国人からは大絶賛されますが、日本の友人は舌を巻いてしまいます。それ以降、日本では出禁状態にしています。
この程度はまだまだ序の口で、命かけの挑戦(反逆行為?)を数回繰り返してましたが、今のところ無事に生きています。徴兵と脱営に関する内容ですがここでは省略します。
『韓国が嫌いで』の著者は、女の子を主人公に設定し、社会を批判的に捉えているのかな?動画情報では社会への不満、突破口を探す弱い立場の女性の話をしているようです。そうです。僕に文句をいう人がいました。「あなたが3つの点で気に食わない」ということでした。日本に来たばかりでまだ3ヶ月くらいしか過ぎてない時期だったから驚きましたね。出身地と家庭と軍隊での身分の3つの条件が気に喰わないということでした。
僕のこの記事が、『韓国が嫌いで』が提起している課題と問題意識は同じだと思います。小説も映画も見てませんが、ユーチューブ動画を見る限り想像の範囲内とは思います。
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今、韓国が先進国だ!とか韓流文化はすでに日本を超えているという主張には裏返しの意味があります。わざわざ言う必要があるというのは、劣等感の表れだからです。