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チューリヒ美術館新館 (動画 No.50)

はじめまして、お菊と申します。世界の美術館を巡ってその説明をできる限り読み聞きするのが趣味です。おむすびチャンネルというところで細々と動画配信を続けてきましたが、だいぶコンテンツが溜まってきたのでnoteでもシェアさせて頂きたいと思います。欧米の美術館の説明は、単語が難しく背景を知らないと理解が行き届かないので、できる限り現地の説明に忠実に、日本人にもわかりやすくなるように情報を追加しながらシェアしたいと思っています。第1回は動画50回目で紹介したチューリヒ美術館の新館をご紹介したいと思います。よろしくお願いいたします。


チューリヒ美術館と、その新館について

概要

チューリヒ美術館は、1910年に開館したスイス最大規模の美術館です。後期ゴシックやイタリア・バロック、オランダ絵画、フランドル絵画から印象派、表現派など幅広く所蔵しています。2021年秋に新館がオープンし、ビュールレ財団より借り受けたビュールレ・コレクションを展示し始めましたので、こちらを中心にご紹介します。

新館オープンと同時にビュールレ・コレクションを常設展示を計画していましたが、方針の違いからオープン1週間前に学者のパネルが一斉辞任するという一幕があったようですオープン後もビュールレ財団寄りの解説が国際的な批判にさらされたそうです。これを受け2022年1月、新館長が「第二次世界大戦におけるスイスの立場について多くを語るパトロンとの複雑な関係」を語る展示会に置き換えることを約束し、オープンに漕ぎ着けました。

行き方

ZRH空港から電車で15分乗って中央駅Zurich HBに行き、歩いて15分です。または次の駅Stadelhofen駅へ行き、歩いて10分という行き方もあります。タクシーはかなり高いのに比べUberはお得感ありますが、値段のせいかUberは年々待ち時間が長くなっている印象があります。

下図、Kunsthaus Zürichがチューリヒ美術館です。時間は空港からの検索結果です。アクセス良好ですね。Stadelhofen駅も多くの路線が通る駅です。新館は旧館は道路の向かいにあり、地下で繋がっています。

トラム使えると便利だけど、色々調べるより歩いてしまった方が早いかも

エミール・ビュールレと、ビュールレ・コレクション

エミール・ビュールレは、1890年ドイツ、ポルトハイムに生まれました。大学では哲学と美術史を学びました。第1次世界大戦に兵士として出征後、銀行家の娘との結婚し財界入りしました。1936年からアートコレクション開始し、1937年にはエリコン・ビュールレ社のオーナーとなりました。現在この会社はOC Oerlikon社として知られています。銃器などを製造しています。

エリコン・ビュールレ社は当初は枢軸国、連合国両方に武器を売っていましたが、1940年以降は永世中立国であったにも関わらず、スイス議会との調整の下、枢軸国にだけ武器を販売しました。結果スイス最大の輸出企業となり、ビュールレは1945年にはスイスで最も裕福な人物となりました。美術館によると、イデオロギーからではなく、会社の利益を最大化しようとした結果だという解説でした。(WWI以降ドイツは武器を売れなくなっていたようです。日本軍も積極的に採用した様子がwikiなどには書かれています)

社長のまま1956年没。66歳でした。

ビュールレ・コレクションのオーナーはビュールレ財団であり、少し前までは私邸を改築した個別の美術館でした。しかし私邸にはセキュリティ上の限界があり、2008年に盗難事件が発生しました。以降この美術館は閉鎖となり、チューリヒ美術館に長期貸与する形で展示されるようになりました。

ちなみにエリコン(Oerlikon)とは、チューリヒ空港からチューリヒ中央駅に向かう途中にある地名で、金融街というよりは普通のオフィス街と言った風情の土地です。ここに本社があったことに因んで名前がつけられています。

スイスとナチスの複雑な関係

スイスの永世中立国は1815年のウィーン条約で認められていますが、一言で中立と言っても単純ではなく、ウィーン条約上の概念と、国際法などで定義される中立は異なるようです。

実際、エリコン社は枢軸国にだけ武器を輸出していた時期もありましたし、スイス銀行はナチスに資金援助していたこともありましたし、パスポートにJの判を押し難民を区別し入国を拒んだこともありましたし、大戦中は女性に強制労働もさせたともされているそうです。

ビュールレ・コレクションはこのときに稼いだお金と、ナチスが戦争で収奪した作品とで成り立っているという主張があり、論争の的になっています。特にここ数年、世界中で収奪されたアート(Looted art)の取り扱いに関する議論が大変増えており、欧米の多くの美術館が対応を迫られている流れがあります。

最近、6枚の絵画がビュールレ・コレクションから大元の所有者に返還されていきました。しかし現実には、返還後に結局買い戻している作品もあります。

ワシントン原則とテレジン宣言

ワシントン原則(1998年) は、ナチス略奪美術品の調査と処理の基礎となる原則を定めています。この原則は法的拘束力はありませんが、スイスを含む44カ国によって採択されています。ナチス略奪美術品を特定し、所有権に争いがある場合は、委員会の設置など、元の所有者の相続人と現在の所有者の間で「公正かつ公平な解決」を促しています。

テレジン宣言(2009年) は、ワシントン原則で定義された略奪美術の範囲を拡大し、ナチスの迫害によりやむを得ず売却された文化財についても規定していますナチス占領地域外で、迫害を受けた人々によって行われた美術品の売却も、略奪とみなす可能性を提起しています。47カ国で採択されています。

「公正かつ公平な解決」とは 、正当な所有者への作品の返還の他、展覧会で没収の状況を公表したり、美術館に展示する際に来歴を明記したり、 補償金の支払い、第三者への売却と収益の分配、現在の所有者へのその後の貸与などを含んでいます。

JUST法(2017年)テレジン宣言で取られた措置を国務省が議会に報告する義務を負う米国の法律です。

作品紹介

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢

イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(可愛いイレーヌ)
ピエール・オーギュスト・ルノワール
1880年

ルノワールは、支援者の紹介でBNPパリバ銀行の共同創設家のひとつカーン・ダンヴェール家の8歳の娘イレーヌの絵を描きました。同時に他の姉妹の絵も描きましたが、夫妻はそれらは気に入らずお蔵入りとなりました。

作品の対象となったイレーヌはオスマン・トルコの絵画収集家と19歳で結婚し、ベアトリスを含む子供を2人生みましたが、イタリア人と不倫関係となりその子供も生んでしまい、上流階級からは絶縁され絵画は娘のベアトリスのものとなりました。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによって接収され、ヘルマン・ゲーリングのコレクションに加えられました。ベアトリスは上流階級の暮らしが目立ったからかホロコーストの犠牲となりましたが、イレーヌは嫁ぎ先が三国同盟のイタリアであったことも幸いしてか生き残りました。

作品は戦後に回収され、修復され、当時74歳となっていた本人に返還されましたが、3年後に本人がオークションに出品し、ナチスに武器を売ったビュールレが落札しました。

上記のような複雑な経緯をたどり、現在は世界で一番有名な少女像となりました。自らの絵画を出品したイレーヌ本人の心中は察するに余りあります。

赤いチョッキの少年

赤いチョッキの少年
ポール・セザンヌ
1880-1890年

本作品は画商、複数のコレクターを経由しビュールレが購入した記録がはっきりしており、収奪されたアートとはことなるそうです。

長く私邸を改築したビュールレ・コレクションに展示されていましたが、前述の2008年の盗難事件でこの絵を含む4枚が盗まれましたしかしあまりにも有名な作品だったため買い手が付かず、2枚が9日後にチューリヒで、2枚が2012年にセルビアで発見され返還されました。

よく見ると特に右腕が長く、バランスは取れていないはずだがぱっと見は気づかない構成です。セザンヌは他に3枚赤いチョッキの少年を残しましたが(MoMA, National Gallery DC, Barns Collectionが所蔵)、この絵以外に有名になっている絵はないと思います。ビュールレが美術を専攻していたことに由来する審美眼と言えるでしょうか。

女性のスルタン(スルタナ)

スルタナ
エドゥアール・マネ
1871年

1935年にベルリンで行われた強制競売で購入された絵が収奪に関して問題になることはほぼ明らかですが、この絵はナチス支配下ではなかった1937年のパリで販売されました所有者のマックス・シルバーベルクは1933年以来ナチスに迫害されていました。この状況は、テレジン宣言の「ナチスの迫害の結果没収された文化財」にあたるのか?シルバーベルクは売却代金を受け取り、それを自由に使うことができたのだろうか?という議論があります。

1990年以降、多数の絵画がシルバーベルクに返還されているため。シルバーベルクの相続人はこの作品も返還されるべきだと主張しています。

一方のビュールレ・コレクションは、シルバーベルクの迫害前の1932年の時点で、この絵はすでにパリ(ポール・ローゼンベルク社)で売りに出されていたと主張しています。

現在ラファエル・グロスによって調査中で、2024年夏に結果が公表され、チューリッヒ美術館で公開されるそうです。

エミール・ビュールレの肖像

エミール・ビュールレの肖像
オスカー・ココシュカ
1951年

ココシュカはグスタフ・クリムト、エゴン・シーレに続くオーストリアの画家です。ココシュカは左翼、ビュールレは右翼を自称していました。イデオロギーの異なる人物が交わることは決して頻繁ではありませんでしたが、ふたりは抽象画が嫌いだったという共通点を持っていたそうです。

睡蓮の池、緑の反映

睡蓮の池、緑の反映
クロード・モネ
1920/1926

私は正直モネの睡蓮は見分けがつきません(笑)結構有名なものらしい!?

日没の種を蒔く人

日没の種を蒔く人
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
1888

種を蒔く人と言えば、ジャン=フランソワ・ミレーを思い出しますが、ゴッホも複数の同じテーマの作品を残しています。

旧館でも作品が収奪品かどうかの調査が表示されるように

私が知る限り、以前のチューリヒ美術館はここまではやってなかったように思いますが、現在は旧館のアートに関しても収奪品と言える根拠があるのか、明示されるようになっていました。最近のアート界隈の本当に大きな流れだと思います。

チューリヒ美術館旧館の表示。色で表示するようになっていました。

終わりに

いかがだったでしょうか。こんな感じでほぼ毎週土曜日に、美術館を一つずつ動画配信を行っています。もしよろしければそちらも御覧ください。Twitterもあります。


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