なぜ「社会派」映画を観るのか(潤)
世間話的に「映画が好き」という話になると、「私も」と賛同してくれる人が割といる。すると自然な流れで「どんな映画を観るんですか?」と続き、最近観た作品や、好きなジャンルや監督へと話題は広がってゆく……こともあるけれど、その中で「監督とかまでは…」とか「難しそうなのは…」とか、果ては「何も考えないで見れるのがエンタメとしての映画の役割でしょ」なんてことを断言する人にも出会ったことがある。当然、それぞれの楽しみ方があるのでそれを否定するようなことはしないし、そんな権利もない。が、やっぱり個人的には好きな監督のフィルモグラフィは追っかけたいし、難しいと言われている作品に挑戦してちょっとイキりたいし、何も考えなくとも見れる純然たるエンタメとしての映画(とされている作品)についても何か考えたくなる。そしてとりわけ「社会派」的な映画は率先して観て、沖映社でやっているようにあーだこーだ話したくなる。扱われるテーマは大概ずっしりと重くて、己の置かれた立場や状況を鑑みると気が滅入ったり、突き刺されまくったりもして、なかなかに辛い思いをすることも少なくない。でも、そんな思いをしてでも観ておきたい。なぜか。最もシンプルな理由は、知らなかったことを知りたいからだ。それは、テーマ自体かもしれないし、そこで描かれる人間たちの境遇や味わった感情かもしれないし、場所や時代かもしれない。何にせよ、初めて観る映画にはきっと自分の知らないことが最低でも何か1つや2つや3つは刻まれているのではないか、と思っていつも劇場のシートに座る。そして、特にフィクションに顕著なことだと思うのだけれど、この世界や社会で起こっていること/起こったことをフィクショナルに表現することで、映画という手法でしか伝達し得ないメッセージは多分にある。フィクションだからこそ、間違いが許され、失敗が許され、そこから言語化するだけでは到底不十分な“何か”を汲み取り、受け取ることが出来るのではないか、と。ちなみに上記で社会派を「」で囲んだ挙句、「的」まで付しているのは、こうして一括りにしてしまうことで取りこぼされてしまうものもあるし、このフレーズで先入観を覚えたり何となく敬遠する人もいたりするということも考慮してしまうから。ただそれでも曲がりなりにも沖映「社」で、何度も発話している説明文で思いっきり言っちゃってるので一応便宜的にということで。
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