資本主義と学生と番組と
10年前、近所にどデカいイオンモールがオープンした。
日常の買い物から、家族のレジャーまでその施設は包み込んでくれる。
一日に複数回行くこともあるため「週10で来店」みたいなペースの時もある。
テナントが代わって新陳代謝をしながら、その施設は今もなお巨大さを保っている。
なんでもあるイオンモールを「スペースコロニー」に錯覚することがある。衣食住から生と死まで全てがあるかのように思える(実際“生と死”は向いの大型病院が担っているが)
このスペースコロニーで時間を過ごすと、資本主義を強く感じる。
ましてや現在、この中の会社でお仕事を担当しているため、自分自身もこの資本主義に飛び込んでいるなとも感じる。
こうして資本主義を浴びながら日々生きているおじさんはあることに気がつく。
最上階の屋上フロアはテナントが少なく、屋外の広場のような場所が複数ある。ちょっとした展望ポイントもある。
この屋上フロアでは、ひっそりと学生たちが自由な時間を過ごしている。
少し死角になるような場所で、寝っ転がりながら友人同士で楽しそうに談笑。大きい階段で二人だけの時間を堪能するカップル。自然発生的に鬼ごっこをするグループも。
彼ら・彼女らはその間、1円もお金を支払ってはいない。
自分たちの想像力と創意工夫で資本主義から一時的に離れ、楽しそうに、自由にしている。
資本主義社会では、お金で「快適さ」を買うことができる。
屋上の硬いコンクリートに座るよりも、数百円お金を払って、冷房の効いた店内のソファーに座りたくなるのだ。
大人になるにつれ、以下に“コスパよく快適さを手に入れられるか”を無自覚に選択し、時に企業の手のひらの上で踊らされる。
資本主義を完全に決別して生きていくことはかなり難しいだろう。
お金をいただいている仕事の場合は、目標の数字を追い、自由な選択を制限されることもある。
だからこそ、自分たちに決定権があり、自由にできる場所が重要となる。
必死にクロールをしているときに、息継ぎをするように、頑張っているときこそ、そうした自由な場が必要だ。
この「沖映社」は、私と真栄城潤一の自由を体現している場所の一つだ。
アクセス数などに目を通してはいるが、追求しない、追わないをモットーにしている。マネタイズも、自由が制限されない範囲で挑戦する。
自由な場が一転して「お金と数字を求める場」になると、また我々は違う場所で自由な場を作る必要が出てくる。
だからこそ、私は主人公が自由を手にする映画作品が大好きなのかもしれない。もうそれだけで泣けてくる。
みなさんにとっての、息継ぎができる自由な場はどこですか?