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福島のこと、忘れていない人とは*2
1のつづきです。
ただ自分の備忘録でもあるので、めちゃくちゃな構成になる予感です。。。
まず浪江町について、ほんの少しだけ詳しくなったので紹介です。
大震災では建物の倒壊、津波、第一原発事故による放射線の影響と、言葉では言い表せない甚大な被害が出ていました。
浪江町も請戸という港が近くにあり、津波による被害はほんとうに甚大な様子だったようです。
3月11日に津波の被害、翌12日には第一原発事故による避難指示と、悲しむことも、自分がどうするか考えることも何もすることもできなかったのではないでしょうか。
というのも、津波のこと、第一原発のこと、被災した地域の名前、その当時の様子など知っていたつもりでも、メディアで見聞きしたものとは違い、何というか、その町にいて、実際に見て、住んでる人のリアルを自分が体験すると「当時こんな気持ちだったんじゃないか」や「今ここで暮らしている方たちはとんでもない強い気持ちで戻ってきたのではないか」と一気に自分の中の当事者の方がどうだったのかという解像度があがった気がしました。
自分だったらそんなに強くいられないと思います。本当に凄いです。
こういった「死」や「生きること」について触れるような過去がある町にいると、余計に身近な人が極端な選択をしたことに怒りなのか悲しみなのか、複雑な感情をなおさら感じます。
寄り添った考え方をすると、そんな町でそんな思いになってしまうのは、本当に心が弱っていたからなんだね、とも。
世間には叱られて当然という思いもちらつくのですが、自分だけは味方でいようと思います。
浪江町ですが、震災後は避難指示がでたため住んでいる人は0人に、そして2017年から避難指示が解除されましたが、当時の人口約2万1千人に対して、現在で約2千人戻っている様子です。
にわかすぎるので、浪江町のデータ的なところはこのくらいにします…!
何が言いたかったかというと、被災した土地にもちろんよると思うのですが、震災から10年以上という歳月でも、被災した土地を簡単には変えられないのだな、という感覚です。
何泊か浪江町駅の周辺に滞在していたのですが、到着翌日は上手くホテルがとれなかったので10時にチェックアウト、次の宿泊先のチェックインの時間までガラガラを引きながら駅周辺を歩き回っていました。
(コインロッカーは残念ながら見つけられませんでいた!実際あったのかな?)
浪江駅の周辺だと目立った店は道の駅かイオンくらいで、あとはコンビニや飲食店が点在している感じです。
飲み食いには全く困らないですし、着の身着のままきてしまったのでいくつか生活用品を調達しましたがそのあたりも困りませんでした。お店の方も皆さん親切な方が多いです。ただちょうどその時日差しが強かったので帽子がほしかったのですが、衣類関係が売っているところは開いていませんでした。
(翌々日道の駅に入っていた無印良品にいきました。ズボンひとつしかもってこなかったのでひとつ買えてよかったです…!)
道の駅には大変お世話になりました。
土地勘がない、地元のことを知らないよそ者からすると、身近で開放的で綺麗で、美味しいものもあって涼しくコンセントもある(…)、大変ありがたい場所でした。
きっと地元の方にも貴重な憩いの場なんだと思います。
その道の駅ですが、何をする訳でもなくぼーっと(時には地元の病院をせっせと調べ、電話し、涙し、、、)していると、出入りしている人がかなりの確率で建設関係の方だとわかります。
道路をみれば建設関係のトラック、駐車場をみればトラック、トイレにくるひとは明らかに建設関係の人、打ち合わせしているのも解体業者や建設関係の人、宿に泊っている人や恐らくその辺りに立っているプレハブやアパートもそういった関係の人が住んでる…?といった感じです。
聞いてみると本当にそうらしいです。
また実感したのが、復興って物理的な「建て直し」というのもあるんだということです。
よく考えればそうだろ、ということを考えられていませんでした。
原発事故による除染作業、建物の解体や除去、土地をならしてまた構築して、途方もない時間ですね。
震災直後の復興支援真っ只中の時は、こういった作業は高い給料だと聞いたことがあります。
「今はそんないい給料もでないしね」という話を聞いて、何も言えませんでした。
書いて整理していると、衝動的に感じた思いも少し変化していきますね。 okiami