母は、私が思っていたほど母ではなかった
先日、夫の口座に国からの給付金が入金された。
夫と相談し、この10万円はそれぞれ好きなものを買おう、ということになった。
「俺はアップルウォッチにしようかな?新型が出てからの方がいいかな?」浮き足立って喜ぶ夫を見ながら、私も嬉しくなった。
普段あまり欲しがらない夫だから、思う存分好きなものを選んで欲しい。
一方私には「自分が欲しいもの」が思いつかなかった。
というと誤解されそうだけど、もちろん「欲しいものがないほど豊か」というわけではない。
今年の初めに家を買ったタイミングでちょっと無理して身の回りの物を揃えたので、今すぐに買い換えるような物がないのだ。
何を買うか決めかねていると、夫が言った。
「ほら、前から欲しいって言ってたじゃん。ホットクック(電子圧力鍋)。
あれ自分の給付金で買えば?」
あまりに自然な流れで出たその提案に、私はかすかな違和感を覚えた。
そしてそれは、自分の若き日の思い出を強烈に蘇らせた。
あの日の母の言葉
それは私がまだ働き出してすぐの頃だったと思う。
当時私は、実家から通いながら生活していた。
父と母と祖母との4人暮らし。
夜勤が多かった私は家のことはなかなか手伝えず、料理をするのはもっぱら母だった。
母は料理の好きな人だった。
たまに買う雑誌はオレンジページかレタスクラブだったし、そこに並ぶレシピを楽しそうに熟読していた。
私はそんな母の姿を見て「母は料理が趣味なのだ」と思っていた。
そう思いたかったのかもしれない。
そんな母の誕生日、私は「タジン鍋」を用意した。
当時とても流行っていて、母も店先で「これ欲しいね〜」と言っていたからだ。
これなら喜んでくれるに違いない。そう思いながら母にプレゼントすると、母はこう言ったのだ。
「え?タジン鍋?なんで?私の誕生日なのに…?」
予想外の反応に、私は驚いた。そしてちょっと納得がいかなかった。
”母さんがこの前欲しいって言ってたじゃん!”と、ムスッとした気持ちになったことを覚えている。
その時の私には、母がなぜそんな言葉を言ったのかわからなかったし、わかろうともしなかった。
ただ「私の誕生日なのに…」という母の言葉だけが、心の何処かに引っかかっていた。
「お母さん」という生き物
そんなやりとり、もうすっかり忘れたつもりになっていたけれど、長い時を越えて冒頭の夫の言葉で思い出した。
そうだ。今やっとわかった。
あの日の母は、タジン鍋が欲しくなかったわけじゃない。
ただ「どうして私の誕生日なのに、「母親業」で必要とする道具を選んだの?どうして”私自身”が欲しいものを選んでくれなかったの?」
と言いたかったんだと思う。
私は「母の趣味は料理」だと思い込んでいたけど、母はきっと「家族の中の役割としての仕事の一部」だと捉えていたんじゃないだろうか。
少なくとも現在の私はそう。
料理は家族のために毎日するが、別に楽しくてしてるわけじゃない。
趣味だなんて、とんでもない。
自分自身が母になってわかったけど、独身時と比べて自分が「何かの付属品」扱いさせることが想像以上に多い。
オキさん家(義実家)のお嫁さん、
オキさん(夫)の奥さん、
ハナちゃん(娘)のお母さん…
自分の存在が社会から切り離されている気にさえなる。誰も私自身を見てくれてないのではないか。
だからこそあの日の母も、「母親」として貰うタジン鍋なんかより、
「母である前の彼女」として小さな髪飾りでも貰ったほうがよっぽど嬉しかったんだろう。
料理、洗濯、掃除…
子供の頃、「お母さん」って生き物は自分たち家族のためにいてくれるものだと思っていた。
だけど「お母さん」は、私が思ってるほど「お母さん」ではないのかもしれない。
母である前の彼女を見ていなかった
そんな懐かしい思い出と気づきをもたらしてくれた、夫の言葉。
正直言うと「え、自分はアップルウォッチ買うのに、私に鍋勧めるの?!」って思ったよね。ちょっとだけ。
そんな自分にあの日の母が重なり、反省だったり、「いや、やはり母は大人げなかったのでは?」だったり、いろんな感情が湧き上がって笑えてきた。
なんだ、そっくりじゃないか私。
やはり私は彼女の娘なのだ。
散々書いておいて、私は給付金でホットクックを買おうと思っている。
もちろん、私の趣味は料理じゃない。
私は「私の時間を確保するため」にホットクックを買う。
材料をいれてタイマーをかければ、それで1品できてしまう。その間に自分のやりたいことをしたり、子供と遊ぶこともできる。
給付金で私は時間を買うのだ。そう考えればこの選択も悪くない。
給付金で買えるものは10万円のもので、それ以下でもそれ以上でもない。
だけど給付金をきっかけにあの日の母の言葉を思い出すことができて、当時の母の気持ちに寄り添えることができた。
母は私が思っていたより、頑張って「母親」をしていて、
私が思っていたより、大人じゃなかった。
そんな不完全な母が、今となっては愛しい。
今もしあの日に戻れるのなら、忙しい母にタジン鍋じゃなくて最新のホットクックでも持っていってあげよう。
少しでも自分の時間が持てるように。
だけど、電気製品に疎い彼女は言うだろうな。
「私の誕生日なのに、なんで鍋なの…?」って。