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初めての自覚から30年
阪神・淡路大震災から30年目と成る。
あの日、アタイは朝起きて部屋でストレッチをし、犬の散歩ついでの軽いランニングへ行こうとして居た。
母上は朝餉やお弁当を作り、父上はNHKを見つつ新聞を二冊読んで居た。
我家の何時もの朝の風景だったのだが、アタイが散歩前にはいつも通りが変化して居て、アタイは汚れてOKな服のままで父上に大声で呼ばれた。
「神戸が大変な事に成ってる、お前何処行く気だ」と、父上は顔色悪く怒り半分言って、また画面に目を向けていたかと思うと、素早く支度し、職場へ向かった。
父上の職場は重度心身障害児者施設で乳児園も敷地内に有り、父上は気が気でなかったのだ。
母上は何時も通り支度を済ませ、テレビ画面を見ながら
「これ以上、亡くなられる方の数が増えないと良いけど……」
そう珍しく神妙な面持ちに成りながら朝の弱い妹を起こしに行きながら、アタイに
「今日は散歩も走るのも止めなさい。塾の日?スイミング?どっちにしろ休んで、お家で私達が帰る迄妹ちゃんと仲良く待って居て。あ、夕飯作ってくれてもいいんだよ。」
と、言いながら2階へ向かった。
アタイは着替えて小学校へ行く支度を整え、朝餉を頂き学校へ向かった。
あの頃は登校班も何も無くて、途中で同級生と待ち合わせて3人で登校して居た。
帰宅すると妹は既に帰って居て、テレビ報道に釘付けだった。
「亡くなった方、朝の時所じゃないの。群馬にも地震来るかな。浅間山が大噴火起こしたらどうしよう。」
小学二年生の妹には辛かったのだろう。
家の中には新聞紙が引かれ、外で共に生活する飼い犬がちゃっかり室内に居て妹に抱かれて居た。
アタイは自分が落ち着か無い中、無言で夕飯作りをし、両親が遅くなる連絡が来た為、姉妹で夕餉にし、珍しく二人でダイニングテーブルで宿題をこなしてお風呂にも一緒に入った。
言葉の出ない世界の夜だった。
一週間経たない内に父上が神戸へ障害者と高齢者、及び乳児を抱えた方々の現場調査に県のグループ代表で行く事が決まった。
メンバーの方々も何度か顔を合わせた事の有る、やはり何等かの形で医療・福祉関連に勤める方々だった。
1月17日から数日後の授業後の小学校のバレーボール部の放課後の部活時間前の時だった。
アタイの住んで居た町の隣町には自衛隊基地が有り、近所にも数家族、自衛隊員のお父様のご家族が住んで居た。
その内の一人がバレー部の先輩宅だった。
その先輩とは仲良くて、お爺様がめちゃくちゃ面白い元気な方で、メダカ釣り行くぞ!ひょうたんでタワシ作るぞ!竹とんぼ作るぞ!みたいな感じで、アタイが家族とは出来ない体験をさせて頂いた感謝有るご家族だった。
コーチが来る前、皆んなで部活着に着替え、ストレッチをして居る時、先輩が堰を切ったように泣きながら震えながら言葉に出した。
「お父さんが神戸へ行かなくちゃなんだって……余震の中、向こうでお仕事するんだって……お父さんが死んじゃったらどうしよう!」
笑顔しか見た事の無い先輩が大泣きを始め、先輩達が真っ先に先輩を抱き締め、後輩のアタイ達も取囲む様に先輩に引っ付いた。
アタイの心中だけは複雑だった。
「そうか、お父さんが死ぬ可能性もあるし、下手すれば骨すら帰って来るのが大変な事態に成るのか……お父さん死ぬ可能性が有るのか!」
全く悲しまないで、同じ様に任務に行く父親を持ちながらアタイ達の気持ちの違いを知ったのだった。
アタイは自分はなんて親不孝者で薄情な酷い娘なのだろう、涙一つ父上に対して出もし無いし。ましてや父上の死をも悲しく想定すら出来無い。自分の心に鬼が住み着いて居るのではないかと心配に成る位だった。
アタイ達二家族で任務前で用意有る父親達以外で少林山達磨寺に行き安全お守りを任務へ各行く人分を購入し、お守りの入る袋へ○○様へと、あと気持ちを書いて、父上には妹とお手紙も書き、お守りの中には勝手に家族写真を折り込んで入れ、任務出立前夜に渡した。
2週間以上、父上達は帰宅しなかった。
予定よりも長く神戸の街に父上達は居た。
この間、連絡は一度も無かった。
帰宅後の父上の新しいスニーカーはズタボロで靴底は微かに穴が開きかけていた。
帰宅後は無言で、お酒が入ってようやくぽつりぽつりと父上は地獄の惨状を見て歩き続ける理由と過酷な言わゆる弱者の現実を泣きながら話、直ぐに寝てしまった。
明朝父上は「布団で寝れる幸せ」をしんみりとぼやいた。
父上自身、小学生時代に火事のもらい火で自宅全焼を味わい、机もランドセルも転校前の友人達との手紙や住所録等の宝物を喪った辛い記憶が在る分、任務は精神的にも肉体的にも苦しみを負い、また改めて職務への気持ちの強さを増したようだった。
先輩は明るい極上の笑顔でお父様の帰宅話を泣いてして居た。キラキラと眩かった。
アタイは笑顔で話の輪に居りながらも、そうか、父上は生きてるのか、また、何時もの日々が戻るのか……と、何とも言えぬ気持ちだった。
あれから30年。
先輩は高校卒業して直ぐに母親と成り、おばちゃんは「家が狭くなって~」とは言いながら嬉しそうだった。おじ様も無事に定年を迎えられ自衛隊を退職された。お爺様はかなり長生きして天国へと旅立たれた。先輩のお子さん達はもう皆成人を迎え、そろそろ子育ても卒業な頃だ。
我家は四人皆んなバラバラに生活して居る。
父上は今もあの町であの家に。
母上は祖母から受継いだ母上の実家に。
妹は他県で夫婦二人仲良く暮らしている。
アタイはアタイでもう三人とは戸籍の繋がりを切り、苗字を変えて、両親から与えられた名前も変えて、新たに生き直しを測って居る。
30年前がアタイの違和感スタートだった。
父上はその後の震災の度に現地へ向かった。
東日本大震災の際には自分で大きな車を運転して、向こうの施設から数人の入所者さんの生命を預かり受けて来たりもした。
父上には自身の道の改めてのスタートでもあったのだと考える。
神戸の現地は復興を遂げた。
未だ大災害時の避難所問題や女性や子ども達への安全と配慮の課題、障害者や高齢者の避難問題、動物との共存した避難所の課題etc.....色々解決が必要な事項は山盛りだ。
その中、自衛隊員も各都道府県からの医療・福祉の任務を与えられた側はさり気なく毎度毎度生命をかけて日々共にその場で歩き続ける。
阪神・淡路大震災が日本にボランティアと複雑性PTSDの存在を世に知らしめた。
アタイ自身、今は生きる事で精一杯だが、それでも今も世界中の災害や紛争、飢餓問題に心動かされ祈りを捧げるのは、アタイなりに歩んだ30年間の中で培った出来る事の一つなのだ。
ウガンダへ飛んで行って現地で学びを受けた18年前は大きかった。帰国後に災害や紛争地、地域フィルタでの飢餓問題、日本国内での飢餓問題(飢餓は心と食糧難の飢えに対する)に視点を持ち、都内の大学に毎週通ったり、合宿や集中講義に本気になりつつあった時、父上はブチ切れてアタイを更に外へ出さなくなった。
今も父上が色々抱え込みタイプでさり気なく繊細な、それで居て俺様気質(下手すりゃハラスメント大魔王)で構ってちゃんでお調子者な時もある、外側と内側の違いがあからさまな謎人物な事はアタイの中で変わら無い。
そして30年後の今、アタイは父上が亡くなったとしても感情が動く気がしない。
寧ろ恐怖の存在が居なくなる事で、死人に口なしと言うか、死人からの報復無しと捉え、心の闇を、家族の事を今以上に書き始めるかも知れない。
それでもアタイの脳みそが父上を主にして家族達からの囚われたままの部分は遺るのかも知れない。
精神科のパグラブ先生との二人三脚は続く。
そして、先生には一番に家族についての作品が出来上がった際には読んで欲しい。
今の生きる希望の一つだ。
災害に目を向ける必要を日本中が周知した30年前。
戦後50年の節目での悲惨な惨状に対する、生命の灯火を尊ぶ祈りの声が集まったあの日。
今を生きるあの日を知る人達は何等かの形で新たに体感したり、知り得た事を胸に歩みを進めて居ると思う。
書きながら生きたいと願うアタイの小さな心の中の気持ちに気付き、今日からまた改めて大切に慈しもうと考えた。
自身のトラウマと上手く共存して行きたい。
noteのこの場で言語化出来て幸いと考えて居る。
久し振りの長文、3000文字以上を書きました。
多々読み難い部分もあったかと存じます。
その中で最後迄お読み下さり有難う御座いました。
皆様の大切な心の灯火と、身体への慈しみをお一人一人が忘れないで欲しいと願う夜。
世界に一人の大切なあなたの幸せを祈ります。
そして、30年前お亡くなりに成られた6,434名全ての御霊への祈りと、ご家族の心の癒しや今も必要とするケアの充足へも祈りを込めます。
生き延びた事で罪悪感に苛まれる方々へも、あなたは決して悪く無い事、辛くても今を生き、そして苦しみを伝えて下さる事へも感謝します。また、その苦しみが柔らかく成ります様にも祈ります。
最後に復興へ関わられた全ての方々へ感謝をこの場にて。
誠に有難う御座いました。
お疲れ様にございました。
名前を知らぬお一人一人が神戸の光です。
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