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【03 「豊前海の辺の蔵に行く」大分県宇佐市・四ツ谷酒造・兼八】石原けんじ大佐焼酎論集
初出:2002年1月12日(記載の内容は当時の状況に基づいている事をご了承下さい)
まとめ
1. 『兼八』の魅力と背景
評価の高さ:横浜焼酎委員会の理事である「いで氏」が早くから『兼八』を絶賛していた。現在では全国的に人気が高い。
原料へのこだわり:主原料は唐津産の「はだか麦」。歩留まりが悪いが味の良さを追求して選ばれた。
製法の独自性:常圧蒸留を採用。減圧蒸留が主流の時代においても、味の深みを重視して伝統的な方法を守り続けている。
2. 訪問時の体験
訪問先:焼酎誕生に深く関わる津田さんの「田染荘」と四ツ谷酒造の蔵を訪問。
四ツ谷酒造の風景:古い商家のような佇まいの蔵で、蒸留器や設備が整然としている。
ご主人の談話:四代目のご主人が丁寧に蔵の歴史や製法について説明。創業から90年以上続く伝統の中で培った焼酎づくりへの情熱が伝わる。
3. 四ツ谷酒造の歴史とエピソード
創業時:創業者「兼八」氏の名前を冠している。初期は白糠焼酎や粕取り焼酎を製造。
転換期:1970年代の第一次焼酎ブームで麦焼酎にシフト。オイルショックの影響を受ける厳しい時代を乗り越え、現在のスタイルを確立。
古代の誕生:樽熟成の焼酎「古代」を生み出し、伝統と革新のバランスを模索。
4. 焼酎市場の変化
時代ごとの流行:かつては甲類焼酎が主流で、『兼八』のような味の濃い焼酎は見向きもされなかった。
現在の評価:味のある焼酎が再評価される時代になり、『兼八』の需要が急増。全国的に知られる存在に。
横浜焼酎委員会理事であり、驚異的な焼酎コレクションで知られる、いで氏に教えてもらった焼酎は数多い。氏が大分県宇佐市の焼酎『兼八』(四ツ谷酒造)を絶賛したのは、この焼酎が出始めの時であった。2004年6月現在、この焼酎は圧倒的な人気を誇っているが、氏は『兼八』人気が沸騰する数年前に、我々焼酎好きにこの焼酎の旨さを教示していたのである。
2002年正月、この焼酎蔵を訪問する機会に恵まれた。別府に在住している大学時代の先輩から「温泉に入りに来い」との誘い。渡りに船と出発を決意。次いでに宇佐市の『兼八』に足を延ばそうと、車を大分に走らせたのである。
■宇佐神宮の領地、田染荘へ
1月4日朝8時、前日に先輩と飲んで非常に体が重いが、別府市から車を北に走らせ宇佐市へ移動する。宇佐神宮で参拝を済ませたあと、まずは豊後高田市にある「田染荘」という酒屋さんに行く。ご主人の津田さんは『兼八』の誕生に深く関わっておられる。ラベルデザインの選定、酒質の設計などに携わり、伝説の「10年古酒」の商品化を企画された方である。
実は、私にとっても思い入れのある酒屋さんなのでどうしても行きたかった。私が酒類全般に興味を持ったきっかけが、学生時代に大分市のいわし料理屋「いなせ」で飲んだ「義侠」であった。重心が低く胴はすわり、しかし切れ味が良い。正直瞠目した。目を見開いた。その「義侠」を店に納めていたのが津田さんだったのである。ホーランエンヤ祭りで有名な豊後高田市の奥座敷、平安時代の荘園の香りを残す「田染荘」にその店はあった。正月にかかわらず、店ではご主人の津田さんに地鶏を使ったお雑煮も頂き「兼八」にまつわる色々な事をお聞きして楽しい時間を過ごした。
■漁師町の『兼八』
車で30分程で宇佐を流れる駅館(やっかん)川の河口にある宇佐市長洲に着いた。近海漁業で生業をたてる漁師町である。対岸には伝説の横綱双葉山が生まれた今津の集落もある。日豊本線沿いに「双葉山生誕の地」という大きい碑もあり、まさに「郷土の英雄」である。
さて、長洲に着いたものの肝心の蔵が見つからない。まあ、ここはセオリー通り「焼酎屋さんの集落を目指していけば蔵に煙突がある」という理論通り、煙突がある所をウロウロしてみた。漁師町らしく道も狭く道も一方通行が多いが何とか辿り着いた。古い商家の佇まいを見せる落ち着いた蔵構えが期待感を増幅する。
■四代目・四ツ谷芳文さんの話
蔵に入ると四代目のご主人四ッ谷芳文さんと奥様が迎えてくれた。ご主人の案内で蔵を見学させてもらう。製麹機、タンク、原料処理の機械が整然と並んでいる。9月から正月休みを挟み春まで仕込むという。蔵の入り口近くに蒸留器がある。当然、常圧蒸留器である。私が見た中でも最小の部類に入る蒸留器である。
「これは、30年前に私が図面を引いて、鉄工所に作らせたわ。既製品にない味があるやろ」と笑いながらご主人がおっしゃった。15年前まで、鹿児島の黒瀬杜氏が来ていたと言う。
「最後に来てた人が10年おったわ。その前の人も10年、その前は黒瀬の親分の都合で1年ごとに替わっちょった(笑)」と蔵を一通り見て、事務所に通された。笑顔が素敵な奥さんが茶菓を出してくれる。いつもは長男である五代目夫婦と子供さんがおられるらしいが、奥さんの実家である大阪へ行っているとの事。お茶を頂きながら、話を聞いた。
■味のある焼酎が見直されてきたということ
創業から焼酎を?
「うちは最初から焼酎屋やな。出来て90年くらいやろか。創業者の名前が『兼八』さんっちゅう人やな。昭和52年くらいやろか、その前は白糠や粕取りを作っとった。近くに日本酒の蔵があるやろ。だから原料には困らんかった。今近くで白糠作ってるのは「耶馬美人」さんぐらいやないかと思うが...今でも作ってるかどうかは分からん。」
「昔は筑豊とか福岡市の方でも黒瀬杜氏が白糠をつくっちょったらしいな。今は末(垂れ)を早めに切って贅沢な蒸留をしちょるけど、昔は杜氏さんは『しぼれるまでしぼれ』いっちょったな。早く切るとおこられちょった(笑)。昔の焼酎の質はあんまり良くなかったやろうな。どこの蔵も同じようだったと思うけどな。そういえば原料が違うんで、この辺の焼酎蔵じゃ鹿児島から初めて外(県外)に出た杜氏さんが来ると使えんっち言っちょった。」
その白糠焼酎を長洲の人は飲んでたのですか?
「いや、そうでもない(笑)。一昔前まではこの辺は甲類の牙城やったわ。宮崎でも延岡あたりはそうやろ。北九州から延岡まで甲類が強かったらしいな。しかもこの辺じゃ『三楽』しか売れんかった。昔の酒販問屋の縄張りの影響やな。津田さんの所(豊後高田)では『ダイヤ』しか売れんかったらしい。同じような味と私は思うけどな(笑)。蔵の近くの漁師は日本酒オンリーやしな(笑)。」
大変な時代があったとご推察しますが...
「オイルショックから第一次焼酎ブームまでは本当売れんかったな。だから昭和52年頃、麦に転換した。昔はトラックに積んで焼酎を売りまわっても残る方が多かったわ。(そうそう…と横から当時の思い出を奥さんが語る)まあ、それでも、四ッ谷の焼酎って言って、飲んでくれる人がいたんで続けちょったんやけどな。」
「売れんで考える時にな、鑑定官から勧められて樽ものを作った。今でもある古代やな。白糠時代も貯蔵してたから古い歴史がある銘柄やな。今、古代は樽に5年、タンクに5年、そしてまたタンクに貯蔵しちょる。親酒は20年くらい経っちょるよ。だが私は樽ものは本流じゃない思ってる。出荷の時は味見するけど、晩酌では飲まんな。」
■手を掛けるから、旨いんです
大分で主流の減圧を使うという選択肢はあったんですか?
「実はな、第一次ブームの時に減圧器の見積もりまで出しちょった。しかし値段が1000万するいうから二の足踏んでたんやけど...結局、その時分の鑑定の先生が『減圧のブームは2,3年で終わる』っちいうから購入せんかった。今考えると1000万無駄にせんで済んだな(笑)。」
「まあ今だから言えるけどな(笑)。どこも軽くて、クリアで、すっきりした酒質やったら面白くないやろ。昔は鑑定の人も減圧、減圧言いよったけど、その当時でも常圧の方が旨いっち言う人がいたけんな。あなたは今日の(2002年1月4日)大分合同新聞見た?いいちこさんも日田のニッカウヰスキー跡地に、全麹仕込みやら常圧を作る工場を作る予定らしいな。もちろんクリアで軽い焼酎が全国の幅広い層に焼酎を普及させたんやけど、最近は味のある焼酎も見直されてきたっち事やろ。」
『兼八』の原料ですが、はだか麦を使ってますね。
「麦屋さんが持ってきて選んだ。唐津の方で作ってるはだか麦やな。これが原価が高いんよ。普通の麦とキロ20円は違う。また、これが歩留まりが悪いのよ。デンプン質が少ないけんな。でも味のいい焼酎がとれるで。研究して製麦は65%が旨いっち事で落ち着いたから、麦屋さんに搗かせて持って来てもらっちょる。」
「10年古酒ね...これはもうなくなった。津田さんが出そう、出そうって言いよったから10年ものを出したんやけど。津田さんは原酒で出そう言いよった。しかし四合瓶は手間がかかるけんな。」
「原酒を出したんは、客の要望があったけんな。貯蔵期間は1、2年ものやけど、お客さんがまろやかって言ってくれる。味も多いし。」
『兼八』を晩酌に飲まれますか?
「『兼八』飲むで(笑)。昔は宇佐むぎやったけどな。宇佐むぎも常圧でつくっちょるけど、原料とろ過方法が違うな。私は、チビチビと味わうのが好きで燗をしちょる。湯5、焼酎5に割ってさらに水を少し入れる。そしてレンジで燗をする。これが旨い(笑)。息子はロックやな。あ、津田さんもロックっち言っちょったな。」
全国的に『兼八』人気が広まりつつあります。この状況をどう思われます?
「難しい質問やな(笑)。しかし味のある焼酎が見直されてきたっち言うのはあるんじゃない。それと先ほどいったよう全部の蔵が、同じ味の焼酎やったら面白くないやろ。一時、日本酒が端麗辛口で同じ味やったけど、最近味のある酒も見直されてきてるらしいしな。」
まだまだ色々伺ったが、ご主人の自然体かつ、随所でみせるこだわりに感銘を受けた。
■エピローグ
午後3時頃「『兼八』」をお土産に購入し、四ッ谷さんをお暇した。宮崎へ帰るため高速に乗った。車窓から穏やかな豊前海が輝いている。早く宮崎に帰って、近くで買ったエビ干しと『兼八』をじっくりと味わおうとしたが、途中でエビ干しを蔵に忘れた事に気づいたのだった。でも、いい。素晴らしい焼酎が手元にある。
「『兼八』にしても、義侠にしても手をかけてますよ。当たり前ですが手をかけないと旨い物は出来ないんですよ。何でも一緒と思いますが。」 (田染荘・津田さん)
「全部クリアですっきりした麦焼酎だったら面白くないやろ。」 (四ツ谷酒造・四ッ谷芳文さん)
(了)