他人への期待と個々人のOSアップデートについての話
もうすぐ僕は30歳になる。
20代ラストの年ということで、何か思うことがあるかと言われると、1月が誕生日でまだ猶予があるせいか、これといった感慨深さみたいなものはそれほど覚えていない。
今年の夏、30歳を記念して、地元で同窓会があると同級生の巨大LINEグループで連絡があった。実際は例のウイルスの影響で開催されるかどうかはわからないのだけど。
ずばり、これに参加するか悩んでいる。
というのも、LINEグループでのやり取りや過去の同級生との同窓会の雰囲気を考えると、都内のカタカナ語だらけの世界で生きている自分は、あまりに異文化の中で生きていると感じるからだ。英語だと「Stranger」とでも言うのだろうか。
地元のことは好きだ。自然が美しい街だし、素敵な友達や家族もいる。空気も美味しい。
でも、同窓会みたいな不特定多数のメンバーが集まるとなると、普段連絡をとっていないような人たちとも出会うことになる。地元を離れて12,3年が経つ自分にとっては、この「カルチャーが合うかわからない、コミュニケーションをとっていない人たちとの対峙」がネックになっている。
僕は、地元ではいわゆる「ちょっと変なやつ」だった。幸い友達は多かったけど、小学生の頃から、いわゆる田舎の体育会系っぽいノリが苦手で、それに対抗するように漫画と音楽と映画とインターネットにハマり、それらが好きな冴えない軍団とTSUTAYAに通う、湿度高めのかけがえのない青春を過ごしていた。もちろん、好きな映画は?と聞かれたら「STAND BY ME」と答える。
STAND BY ME軍団については、ちょこちょこ連絡をとったり、時々SNSでやり取りしたりする。しかし、いわゆるイケイケドンドン軍団については、SNSでやり取りすることがまずない。というか、彼ら彼女らはSNS自体をほとんどやってなさそう。だからこそ、インターネット畑の人間として情報が少なくて構えてしまうというのもある。
もうずいぶん昔になるけど、2回ほど同窓会的な場に参加したことがある。総じてなんやかんや楽しかったのだけど、そこで、普段なかなか会わない「イケドン軍」と会ったときのコミュニケーションがなんとなく引っかかったのを覚えている。
イケドン「ヨッ!最近何やってんの?」
ワシ「新卒で東京にあるマッサージ屋さんの会社に入って毎日セコセコ働いてるよ」
イケドン「えっ!海外めっちゃ行ってたやん!もったいない!」
ワシ「…?たしかに大学時代、海外はよく行ってたけど…。マッサージ屋さんも大変だけど楽しいよ。っていうか、なんで海外行ってたこと知ってんの?SNS繋がってないよね?」
イケドン「あいつ(別の友達)がFacebookで見たって言ってたんよ。いやー、海外行って偉くなって、政治家とかになってほしかったわ〜。マッサージ屋かー。うーん…。」
ここで気になったのは3ポイント。
(1)別の友達(全然SNS更新してない)経由で自分の情報を一方的に知られていた怖さ
(2)「海外に行く=すごいこと」という前提の違い
(3)「マッサージ屋ではなく、海外行って政治家になってほしかった」という一方的な期待
飲み会の帰り道、これらすべてがコミュニケーションの不足によって生まれていると思った。
SNSやテクノロジーの発達によって、あらゆる情報が完全にクローズドになっていることなんてなくない時代だ。URLやスクショがある限り、誰かに何かが届く可能性が必ずある。だから、(1)については、ちょっと怖いけど、情報を発信することが多い人間として心得ておかないといけないと感じた。この文章もきっと届く。
(2)の「海外に行くこと」についての解像度や距離感の違いがあるのもよくあることだ。
でも、(3)については思うところがあった。今知っている情報を元にコミュニケーションをとろうとしてくれたことに関しては感謝している。
しかし、飲みの席とはいえ、他人から得た断片の情報と過去のアップデートされていないイメージを元に虚像の僕を描いて、押しつけるのはやめてほしかった。あと、職業に対する偏見はシンプルによろしくない。
このツイートにも書いたけど、人は変わる生き物だ。
自分がガラケーを使っていた頃とは全然違う自分であるように、他人もまた違う他人。それぞれの「OS」はアップデートされ続けている。
人間はコミュニケーションが不十分だと、それらしい断片情報や曖昧な「当時の記憶」を頼りに、相手は「あの頃のままだ」と錯覚してしまう。あるいは「あの頃のままでいてほしい」と期待してしまう。しかし、現実はそうもいかない。
相手が使っているのはかつてのSH902i(ガラケー)ではなく、iPhone11 Pro Maxなのである。みんなのゴルフはプリインストールされていない。チャリ走をポチポチやっているのではなく大画面でポケモンGOをシュンシュンしているのである。
虚像ではなく、目の前にいる実像に向き合わなくてはならない。
たぶん、なかなか普段会わない、かつコミュニケーションをとっていない人と出会うと、こういったシチュエーションはたくさんあると思う。
同窓会のたったの2時間弱とかで、これまでのイメージをガラリと変えるのは簡単ではない。いつものメンバーで飲むなら、いつものメンバーだけで集まった方が気が楽だし、深い時間になる。
だから、わざわざ2日近くの時間と往復+飲み会代5万円近くのコストをかけて帰省して会いに行くかと言われたら、悩ましい…というのが今の心境だ。
……こんな感じでまとめてきたけど、彼らも、僕と違う人生を歩んでいて、前に会ったのもずいぶん昔だ。みんないい大人。
一方的にこちらから偏見を持ってコミュニケーションを断絶して、理解しあおうとしない姿勢はとてもダサい。僕もずいぶんまみれてしまっている。みんなと上手くやっていける自信があまりない。子どもの頃の方がきっとこういうのは自然にできたはずなのに。
もしかしたら、意外なところで意外な接点があって勉強になったり、合理的なメリット・デメリットや目的を超越した思わぬ感動があったりするかもしれない。こればかりは、本当に行ってみないとわからない。
僕がかつての僕でないように彼らも以前の彼らではないのだから。
そう考えると、はみ出してみるのも一つかもしれない。
「東京」と「田舎」、「帰省したStranger」と「そこでずっと過ごしてきた人」、それぞれがそれぞれの偏見と、一緒になれないもどかしさ、一握りの期待感を抱えて生きている。みんな仲良くしたいはずなのに。
「コミュニケーションの問題の9割はさみしさでできている」そんなことを感じずにはいられない。
みんなが自己紹介note1本ずつ書いて事前共有とかしてたら少しは問題解決に繋がるかも、なんて思ったりもする。
答えを出すのはかんたんではないが、もう少しだけ考えてみようと思う。
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