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【コルドロン】コルドロンの正しい観方
※ネタバレを多く含みます
コルドロン、と聞いてピンとくる人は相当なディズニー映画ファンだ。
1985年に公開されたこの映画、ぼくはめちゃくちゃ好きで何回も見返している。
ただ、レビューサイトでは散々な書かれようで、視聴に二の足を踏んでいる人も多いのではないだろうか。
確かに低評価の理由は頷けるものばかりだ。
主人公が全然活躍しない、世界観の説明が足りない、物語がスカスカ…
実際に観た人もおそらくこんな感想を抱いたことだろう。ぼくも最初はそう思った。
だけど、そんな人達にこそ伝えたい。「観て欲しいのはそこじゃない」と。
この映画で観るべきは、「子供が冒険を通じて大人になっていく過程」なのだと。
「コルドロン」が描きたいこと
主人公ターランが、様々な挫折や失敗を乗り越え、大人になるまでの物語。それがコルドロンだ。
ターランは国一番の勇士になることを夢見ている豚の世話係。
「チャンスが来ればできる!」と豪語し、動物たち相手に棒切れを剣代わりに振り回すようなよくいる子供。
ある日師匠のドルベンから、予知能力を持つ豚のヘンウェンを守るよう命じられるが、一瞬目を離した隙に魔王の手先に誘拐されてしまう。
ここからはターラン、挫折と失敗の連続だ。
魔王の城に忍び込むも捕まる
エロウィー姫のおかげで脱獄に成功
魔王の手下に見つかるも、魔法の剣のおかげで城から脱出
ブラック・コルドロンを隠している3魔女とフルーダーのおかげで交渉のテーブルにつくことに成功
自分の判断ミスで、何の役にも立たないブラック・コルドロンと魔法の剣を交換。あげく、魔王の手下に捕まってしまう。
自分はやることなすこと上手くいかず、エロウィー姫の魔法やフルーダーのコミュ力に助けられるばかり。
彼の胸中はいかばかりか。そりゃエロウィー姫に辛く当たってしまおうというもの。
ただ、この失敗と挫折はターランの精神をめきめきと成長させていった。
「僕にならできるよ!」と何の根拠もない自信をみなぎらせていた子供のターランはもういない。
精神が成熟し、大人になったターランを感じ取った時、コルドロンは名作になる。
ターランに共感の気持ちが芽生え、物語にグッと入り込みやすくなる。
コルドロンで描きたいのはそこで、逆に言えばそれ以外は全て不要なものだ。
魔法の剣には「ディルンウィン」という名前があるがどうでも良いし、その他ほとんどの設定・世界観は不純物と見なされている。ガーギが何者かなど些細な問題なのだ。
しかし、オープニングの映像で冒険譚を期待してしまう視聴者にそのことは伝わらない。残念ながら、これがコルドロンの評価を著しく落としている要因だ。
「コルドロン」の感動ポイント
上記を踏まえてラストシーンを見てみよう。
ガーギの自己献身により命からがら魔王の城から逃げ出したターラン一行。
(ちなみにターランは魔王の城から逃げ出す時、初めて自らの力で一行を助ける。魔法の剣でも仲間の力でもない、他ならぬ自分だけの力で)
そこに3魔女が現れ、魔王ホールド・キングを倒したターランにこう語りかける。
「そこにいる英雄坊やに用があるのさ」
だか、ターランは悲しげな顔でこう返すのだ。
「英雄?ガーギだよ、英雄はね」
勇士を夢見て田舎から出てきたターランにとって、英雄という評価は飛び上がるほど嬉しいものだろう。
だが、ターランにとっては何も嬉しくない言葉だ。
自分はただの豚の世話係という現実を散々見せつけられたターランには。
現実を思い知らされ、夢を諦めたことは誰にでもあるだろう。
そんな自分とターランの姿が被って見え、この場面は最高に感動するシーンとなるのだ。
「コルドロン」はヒューマンドラマだ
前述したように、コルドロンは冒険ファンタジーとして見られがちだ。
ガーギが主人公じゃん、と言われることもよくある。
だが、コルドロンはヒューマンドラマだ。
子供のターランが現実を知り、夢を捨てるまでの過程を描いた物語だ。
だから、主人公はターランでなければならないのである。