河和田は、私の原点だった

7年前、20歳だった頃の私

2年間の受験勉強による缶詰生活を終えて、解き放たれたようにいろんなことに手を伸ばしていた。

当時を振り返って、今も付き合いを続けてくれている友人は
「あの頃の岡崎さんは、焦燥感に駆られているように活動してたよ」
と私に言った。本当にその通りだと思う。

決して上手くいっていることばかりではなかったし、たくさんの失敗をした。けれども、様々なことに果敢に挑戦した。

そして、暴れ散らかしていた20歳の私が、一番面白いと思っていた土地は河和田だったと思う。

今のスタンスになったきっかけは間違いなく河和田にある。

一昨日「RENEW」へ参加しに河和田に行ったことは私にとって、紛れもなく原点回帰だと思った。



原点回帰するまでの7年間


20歳:やりたいことを叶えるために飛びついた地酒販売プロジェクト

大失敗に終わった受験浪人生活の後、現役時代に好成績で受かっていた大学に仕方なく入学し、「起死回生を図るんだ!!」という無駄に大きな気持ちで挑んだサークル説明会。

私は当時、自分の手で映像やアニメが作りたくて仕方がなかった。それができる場所を探していた。

そして、ひょんなことで知り合った友人についていく形で「河和田アートキャンプ」の新歓に参加した。

河和田アートキャンプには地酒販売をプロデュースするプロジェクトがあり、そこに目をつけて私は、そのPJに参加することを決めた。
(余談ですが、この時私を勧誘したPJリーダーが後の夫です)

地酒PJはコンテンツによるPRがしたいということを訴えていて、そのPRの手段に映像も含まれていた。私はそれを手がけることになった。そして、紆余曲折ありながらも夏休みに河和田へ2〜3週間滞在して本制作に取り掛かり、なんとか映像を完成させた。

河和田アートキャンプの各PJは本来、夏休みだけが活動の期間だが地酒PJは例外で、地酒PJはこれから先も続いていくことを前提として活動している。

通年で活動していたので、豪雪が降る冬の時も河和田へ出向いたこともあった。これからの地酒PJと河和田の関わりを、好循環で支えられる仕組みがないだろうかと、メンバー同士で頭を捻った。

地酒PJのメンバー的には納得のいく仕組みを考案することもできたし、年度末には地酒のイベントも開いて、地酒のさらなる認知を図った。

だが人材も資金もなにもかも、PJを動かすための資本が足りていなかった。

学生主体のPJではあるし、それは当然かもしれない。資本が足りないから仕組みを考案したとて絵空事だ、と割り切ることもできるけれど、それでも私は自分たちの力のなさが心底やりきれなかった。

そして、私が夏休みに作ったPV映像はあまりにも他人に見せられるものではなかったし、PV映像を作ったところで、そもそもそれを見てもらえる動線すら整っていなかった。それが一番悔しかった。

せっかくやりたいことがあっても、私たちはそれをやり遂げることができなかった。やり遂げようとするには、あまりにも短すぎる1年だった。

反面、その2年前からRENEWは活動&開催をしており、私はそれをただ羨望の目で見ていた。
当時は今よりも全然規模が大きくなかったけれど、それでも私がやっていることの何百歩、何千歩も先を行っていることが明らかだった。

この頃の私は、何者でもない自分がやりきれない、と青臭いことをひたすら考えていた。

21歳:私の制作物はなんの役に立つのか毎日考えても、さっぱり分からなかった

大学2回生になった私は地酒PJを卒業し、河和田自体をPRするためのプロジェクトを立てた。地酒PJ時代に解決できなかった「様々な人を巻き込んで、作品を見てもらうための動線を整えつつ、PRコンテンツを作る」というテーマで作ったPJだった。

最初はかなり意気込んで作ったPJだったけれど、積極的に勧誘活動をしていてもPJメンバーがまあ集まらない。
なんとか一人だけ勧誘に成功して、PJの仕組みも、やりたい内容も、どれだけ頭を捻って考えたとて、また私は「人も時間も、何もかも足りない」問題に直面した。日に日に本制作期間が迫り、私は徐々に焦りを感じていた。

「たくさんの人と作りたい。たくさんの人に見てもらいたい。そうでなければこのPJはポシャったこととも同義だ」と極端なことすら考えてしまっていて、完全に無いものねだりをしていた。


今ならわかる。ひとりぼっちでも、まずはやればよかったと。


でも、当時の自分はそれが分からなかった。
メンバーを集める力がなかったこと。自分的にはいいPJを思いついても、それに共感してもらえる人を作れなかったこと。その出来事がただショックだった。

そして、私は思ってしまった。

「人が集められないのなら、もう私が河和田でPJ活動をする理由がない」

夏休み直前に、私はPJを中断して河和田で夏を過ごすことをやめた。
引き留めてくれた人も居て、その意見に背くことがとても申し訳なかったけれど、当時の私は他人のことを考えている余裕がなかった。

別のPJで一緒に頑張ってきたメンバーにも申し訳なかった。自分に対して屈辱を感じた。

それからは実家にも帰らず、新しくバイトを始め、下宿先にこもって絵を描く毎日だった。

その後、制作していた映像がなんとか実を結んでコンペを獲ったりもしたが、その事実があったとて私の中でPJをやり遂げられなかった劣等感と、河和田で相談にのってくれたり、面倒を見てくれた人たちに対しての申し訳なさが拭えなかった。

22歳〜26歳:手も足も出なくなってしまった闘病生活

3回生も後期に差し掛かったある日、学校に行こうとしても起き上がれなくなってしまった。無理やり起き上がって電車に乗っても、前なら気にならなかったノイズが頭をグサグサと刺すような感覚がして、途中で引き返して帰っていたりした。

それも当然だった。18歳の頃くらいから私はずっと焦燥感と劣等感をエネルギーにして活動していた。それらの毒が徐々に身体を蝕んでいて、ついに限界に達してしまった。

今思えば、そんなことをするから大学では多少浮いていたと思う。

大学は休学せずに何とか卒業したけれど、病気が寛解するまでに3〜4年を費やした。とにかく長かった。もちろん就職もできず、実家に居ながら細々とバイトをする日々だった。

その間、私は自分を許し、認めることに一番時間を費やした。

27歳:再出発

そして一昨日。実は2017年、2019年、2022年と2〜3年おきにRENEWには来場していたけど、昨日感じたことはこれまでと全く違った。

愚直に続ければこれだけ多くの人を巻き込めるのか、と感銘を受けた。大きな勇気をもらうことができた。


病気が寛解し、バイトを辞めて一から絵の仕事を始動させた私は、ありがたいことにポツポツと漫画やイラストの仕事を発注していただけるようになった。そんな時、私は仕事をする時に昔と変わらず考えることがある。

「これは誰に読んでもらうものだろうか」
「発注者の方は、制作物に何を望んで私に仕事を渡しているのだろうか」
「出来上がった後、本当にこの制作物は望んだ方向に作用するのだろうか」


河和田にも自分自身にも、身に染みるように直面した問題がたくさんあった。

「たとえいいものを作ったとしても、自分たちの望んだ売り方ができない」
「いい売り方を思いついても、それを実行できる力が弱すぎる」
「そもそもこの場所に、自分たちが誇れるものがあるのだろうか」

そして、その問題は大小あれど、決して河和田だけのものではなかった。


絵を生業にしている友人が、もっと多くの人に絵を見てもらうとしたら。
理解しにくい事象を、多くの人に分かりやすく説明したければ。
そもそも、私が望んでいる自分の未来を、着実に進めていくとすれば。

周囲を見渡せば、悩みを抱えている人がたくさんいる。


私が20歳の私に声をかけるとしたら、こう伝えると思う。


ひとりぼっちでも、誰かに冷たくされても、資本がなくても、自分の信じることを愚直に続けていたら後から望んだものがついてくる。

やるべきことがわからなくてもいい。大層な目標を持つ必要もない。目の前にある小さな選択から始めればいい。

朝起きてすぐ、コミティアのプロットを書くか。仕事の絵を描くか。そんな小さな選択の積み重ねだと思う。

その選択が実るように努力をすればいい。迷わず愚直に続ければ、後から目標や資本、熱意がついてくる。


21歳の頃、河和田のPJを投げ出した自分を許そうと決意してから、いつしかそんな思考に変わっていた。


原点回帰して、これからできること


そして、20歳の頃の私と、27歳の頃の私は大きく違う。

私は学生ではない。自分で責任を持たなければならないし、制作物でお金を頂いている以上、アマチュアではなくプロとして振る舞わなければならない。

その代わり、昔よりももっと多くの人を巻き込める可能性がある。

そんな事実が既にあることに、心底ワクワクした。

河和田でやりたいことを投げ出したと思い込んでいたけれど、私は何も諦めていなかった。
家に引きこもっていた療養期間も、自分を許すための大事なことだった。


「様々な人を巻き込んで、作品を見てもらうための動線を整えつつ、PRコンテンツを作る」

21歳の頃に考えていたことを思い出して、今もワクワクする。

場所は河和田ではなくなったけれど、別の場所でそれが花開くように今を頑張ろうと思った。

一人ぼっちから、1つずつ積み重ねていこうと思う。
(何から手をつけていくのかはまた書きます)

そんな勇気をもらったRENEWというイベントでした。