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かわいくない絵を描く理由

私の絵って、ゆがんでます。
というか、ゆがめています。
へなちょこです。
見た人がみーーーんなかわいいとは言ってくれないであろう、
かわいいに寄りすぎない、そんな絵を描いています。
というお話。
(あいかわらず文章下手くそなので嫌になったら離脱推奨です笑)

かわいいは作れる

どこかのキャッチコピーみたいですが
「かわいい」絵ってコツをつかむと描けるんです。
どうすればかわいくなるか法則みたいなものがあります。
顔の輪郭に対して目を半分より下に描く、とか。
目と目の距離は開ける、とか。
目と口は近づける、とか。

かわいいの法則みたいなやつ

好きか嫌いかは別として「かわいく」なります。

先に言っておきますが、私はかわいい絵が好きです。
他のクリエイターさんが描くかわいい絵に
「かっっっっっ!わいいいいいいい〜〜〜〜!!!!」
と飛び付きます笑

私みたいにかわいいものに反応してくれる人は多い。
だからヘソを曲げずにかわいい絵を描けばいいのに、
と自分でも思うことがありますがへなちょこな絵を描きます。
じゃあなんでかわいいに寄りすぎないようにしているのか。
単純明快、自分でかわいいを描くのは抵抗があるから。

かわいいの強制

これは前回の記事でも書いたように
「いい言葉」を言うのは簡単、みたいな話と同じ感じ。

突然ですが道徳の授業(つまらなかったなぁ…)で意見を言わなければいけないとき、
どういう回答がいわゆる「正解」で、高評価を取れると思いますか?

それは…
「いいこと」言えばいいんです。
世間一般論で「いいこと」です。
人それぞれ心の中で考え方の違いはあれど、
"先生に怒られない"「いいこと」がなんなのかは
ある程度みんなわかってると思うんですよ。
そう、道徳の授業なんかなくてもわかってます。
「いいこと」の「正解」を上っ面だけ共有するみたいな、
あの授業大っ嫌いでした。(つまらないから格下げ笑)

で、あの授業で本来導きだしたい「答え」って
これが正しいことです!と
授業で押し付けられるものではなく
傷ついたり、傷つけてしまったり
やさしくされたり、やさしくしたくなったり
人と関わったり、自分で体験したり、
その中で感じたり生まれるものなんじゃないかな、と。

だから世間が言う「いい言葉を紡いだいい歌詞のいい歌」とかも
素直に受け取れないんです。(こじらせてんな)
いいこと言ってるとは思うけど、感動しないというか。
自分が体験してないからかも?
もちろん感動するものもありますよ。
それはきっと実感したことがあるからかな。
人それぞれの感じ方があるから、どう受け取ってもいいと思うんですが
どうやらいい歌には感動しないと
「えー??」と言われるらしい。
それが一番やだ。
「いい」の強制ですね。
それに反抗すべくへそ曲がりに育ったのかも。笑
あ、だからこの文章も受け取りたくなかったら受け取らなくて全然いいんです。

さて、絵に話を戻します。
「いい言葉」の強制と似ているんです。
自分にとって絵は言葉と並ぶ表現方法。
「こうすればかわいい絵が描ける」というマニュアルのようなかわいい絵は
「かわいい」を押し付けてしまう気がして描けないんです。

私は私の絵をかわいいと思って送り出していますが、
私の絵を見た人全員がかわいいと思ってくれないことは百も承知です。
だってへなちょこだし笑

あともう一度言いますが私はかわいい絵、好きですよ!!

かわいいちゃんはへなちょこくんの3倍時間がかかる笑

どこかのだれかに

神絵師と呼ばれるようなすごい絵は描けないけど
どこかのだれかの目に止まって「なにこれかわいい」と
思ってもらえたらそれが一番うれしい。
きっと”その人のかわいい”の中には
見ていて落ち着くとか、励まされるとか、癒されるとか、
アイツに似てるとか、懐かしい気がするとか、
いろんな感情も混じっていると思うんです。
少なくともプラスの感情。

イラストってずーーーーっとじーーーーーっくり見ていることって
多分あんまりないですよね。
だから私の絵がお守りになるような直接的なものでなくていいんです。
その人のプラスに向かえる瞬間のどこか一部にいられたらなと。
そんなふうに絵を描いていこうと、これを書いていて改めて思いました。

「誰かのほっとできる瞬間の一部になれるイラストを」

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