西の祖父が死んだ
9月26日 午前5時9分。
祖父が87年の生涯を終えた。
私が最後まで手を握り、家族11人に見守られて死んでいった祖父。
前から体調が悪いのは聞いていた。
また救急車で運ばれたのも、入院したのも。
それでもちょっと前まで減らず口を叩いていたから今回も回復するかな、前も大丈夫だったし。そんな風に思っていた。
いや、思っていたかった。
(下記参考)
母から電話があったのは23日の夜。
急に容態が悪くなった。今度こそダメかもしれない。
上期末で年に2番目に忙しい1週間。
それでも朝から帰ろうとするも、面会には制限がある。コロナの影響で人数も時間も制限されていた。
仕方なく24日の間に仕事を猛烈な勢いで片付けて、そのままホワイトボードに
日付指定無しで『休』の文字を書いて、新幹線に飛び乗った。
25日になって祖母の付き添いだと言い張って病室に入れた時。
祖父の意識は殆ど無かった。
「大丈夫」と「ダメかも」を繰り返し考えていると涙腺が壊れたように泣くことが解っていたから、何も考えないように。
一度戻り、祖母の用事を済ませて、やっと家に帰ったところで母の電話が鳴った。
【危険な状態です。面会の制限は、もうしません】
その連絡に祖父の子ども、その奥さん、それに私たち孫が全員すぐに集まった。
個室がザワザワ、がやがや賑やかで。皆順番に手を取って声を掛けた。
朦朧とした意識のはずが私の声に反応したのか手を胸に引き寄せた時、本当は声を上げて泣きたかった。
また一旦家に帰り、深夜3時。
【急いで来てください】
その連絡に飛び起きて、車に乗って。病院までは30分。
もう最後なのは解っていたから、とにかく間に合って欲しかった。
なんとか病院までやって来て、1時間以上病室に居たと思う。
ずっと誰かが手を握っていたし、声を掛けていた。
最後の瞬間、皆が落ち着いていたのは、ちゃんと見守れて良かったという安堵もあったのだろう。
じいちゃんが1人で逝かなくて本当に良かった。最期までうるさい家族に囲まれて、さぞかし「やかましいわ」と思っていたことだろう。
そのまま斎場に移動して、ずっと交代で線香を焚いて。
傍にいるのが私1人になった一瞬があった。
祖父と2人きりなのは本当にこれが最後になるだろう。
「じいちゃん、時計貰ってくで」
顏を見て声を掛けた時、ボロボロ涙が落ちた。
祖父の病室にあった腕時計。
私が社会人になってすぐにプレゼントしたそれを、ずっと大事に使っていてくれたのだと初めて知った。
去年倒れた後、ベルトがボロボロになったからと交換したのも、祖父が時計が好きだと言うこともそこまで知らなかった。
就職して関西に出て、時々しか会えなくなって。
それでも誕生日や敬老の日の度に色々プレゼントをあげてきた。
洋服だったり、サンダルだったり、財布だったり。
それらを結構気に入ってくれていて、使い込んでいるのはなんとなく知っていた。
今着ている服だって、私が贈った綺麗な色のベストとスラックスだ。少し鼻が高い。
だから、これくらいは返して貰ってもいいよね?
お棺に入れられてしまう前に形見に貰っておこう。
こっそり拝借した時計は今私の腕にある。
遺影には私が撮った写真が使われ、式は家族葬で少人数で、なんて言いつつも30人近くの大所帯になり、お通夜も、お葬式も秋晴れの中、わいわい賑やかだった。
祖父の棺に「故人の好きなものを入れてあげてください」そう言われて身体に悪いと言われても結局止められなかった煙草や好きだったコーヒー。気に入っていた服を入れている中。
「じゃあ最も愛されてた私が入った方がいいのでは?」
そんな冗談を言えるくらい「それもそうやな!」と返せるくらい和やかで。
お葬式からは、ひ孫組も合流して皆で最後まで見送った。
お骨を拾い、1人早めに切り上げて愛媛から本州に向かう特急電車の中。
腕に付けた時計と、スマホに残る昔の写真を見ていたら思い出が次々と思い浮かんで。
瀬戸内海に沈む太陽をぼんやり見ながら
「ずっと楽しかったよ」
そう呟いたら視界が曇って何も見えなくなった。