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たすけの苦労こそが「おやさま」に通じる道


おたすけの上で苦労をすることで、親のありがたさが分かると言う話です。

お爺さんとの出会い

体調が優れない、ある日の戸別訪問。

毎日の如く私は、にをいがけ(布教)に回っていました。


ある一軒家を押すと、おじいちゃんが出てきました。

若々しく元気なおじいちゃん。

年齢は86歳。

喋り好きなのか、私に絡んで下さり、そのまま

「お前こっちまで入って来い!」

とのことで、玄関まで入れていただきました。


話を聞くと、真っ昼間からお酒🍶を飲んでいるとのこと。

そして、舌の先に、腫瘍が出来ているとのことでした。

5年ほど前から痛むみたいです。


医者にも見放され、どうにもならない。


そこで私が、

神様にお願いさせていただきます!

と言うと、お爺さんは血気盛んに

「あほ!神なんかあるものか!」

「神様拝んで治ったら、医者は要らんわい!」

と一蹴されました。


多少天理教のことは知っているのか、阿波踊りのマネをして

「こんなんで治る訳ながらうが! アホ!」

とバカにされます。

そこで、負けじと私も

「神様にお願いすれば、きっと治ります!」

と、弱々しく言い放ちます。


するとお爺さん

「ああそうか、もし天理教で治ったら、百万でも二百万でも五百万でもお供えしてやるわ!」

とのこと。


お金に少々敏感な私は、

なんとか、痛みが治ってもらいたい。

そのようなことから、なんとか助かってほしいという思いになりました。

3日間のお願い


そこで、この件を会長さんに相談しました。

すると、

三日間仕切って、お願いをさせてもらいなさい

とのお言葉を頂きました。



最初にも言いましたが、その頃はすこぶる体調が優れません。

お爺さんと出会う前の一週間ほどは、頭痛を催しながら「ヒーヒー」言いながら歩いていました。


うわぁ、この最悪なコンディションの中お願いづとめをやるのか

と、気持ちは乗りませんでした。


しかし、この絶好のおたすけの機会。

神様は私の誠真実を試しておられる!

今が、魂のランクが一つ上がる時や!

と自分に喝を入れ、三日間、割と真剣にお願いをさせていただきました。

やはり、会長さんに言われたからか、体調は優れなかったものの、勇んで勤めることができました。

4日目


3日間のお願いが終わり、4日目。

その日は小雨がパラつく中でしたが、ママチャリを漕いでその方の家に行きました。


インターフォンを押すと、早速出てこられ、

「あーまた来たんか!」


と、ほろ酔い気分で出てこられます。


お爺さん

「ほんま迷惑やなぁ」

と言いつつ、いつものようにリビングまで入れていただきました。

世間話の後、

「舌の痛み治りましたか?」

と伺うと、

「あー治った治った!ありがたいわぁ!」

続いて、

「あ〜お供えお供え!二百万でも三百万でもさせてもらいます!」

と言った、すぐ後、

「バーカ!治るわけなかろう!」

「神を拝んで治るなら、医者は要らんわ!」

「どうせ天理教なんか、『やーしき払うて、金くれたーまえ、テンリーキョーのミーコートー』やろ!」

と、ボロクソに言われました。

そのあとお爺さんから、

「まあ、コーヒー飲むか?」といわれ

「ありがとうございます」と答えると、

「あーなんで俺は、オメェみたいなやつにコーヒーを出してやらんといけんのじゃ」

「厚かましい奴やノォ」

と、またもやおちょくられました。



私は、正直なところ、腹が煮えくり返りそうでした。

と言うのも、私はこの人のたすかりのために、体調が悪い中、3日間必死にお願いをさせてもらいました。


そこで調子を伺いに行くと、

「バーカバーカ」と揶揄されるだけです。

どうしてそんなに馬鹿にされないといけないのか。

こちらは体調不良の中、真剣にお願いしたのに、どうしてそんな態度ができるのか!?

いろいろな不足や不満が脳内をめぐり、正直今日は、もう早く帰りたいと思いました。

ですが、喋り相手が欲しいのか、お爺さん、

なかなか帰らせてくれません。


結局、帰る時間ギリギリまでおちょくられる話を聞いて帰ることになりました。

涙が溢れ出る


帰りの自転車を漕ぎながら、モヤモヤした気持ちが爆発しまして、

私は、「クソがクソが!」と、恥ずかしながら不足の声が爆発していました。

でも自転車を漕いでいると、不思議と涙が突然溢れてきたのです。


それは、「おやさま」のことを思っていたからです。

その方の家に行く前に、「おやさま」ひながたの講話を聞いていました。

それは、次のような内容でした。

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「おやさま」は、人をたすけたい一心で貧に落ち切られました。

その結果、家族から、親族から反対されました。

そればかりか、時には最愛の家族から刀を突きつけられ、厳しく詰問されました。

また、親戚や周りの人たちから、

ありもしない悪い噂を流されて、

陰口を散々言われたりもしました。

それでも「おやさま」は、人をたすけるため、神様の方だけを見て、神様を信じ続けられました。

20年もの間、誰1人として恩を返す人がいませんでした。

それでも人の悪口、 神様の悪口を一言も言わず、

常に神様の方を向いて、神一条で通られました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


神様の教えを伝える私たちとしては、人だすけのために動いている。

ですが、相手は何も分かってくれません。

分かってくれないばかりか、揶揄されたり非難されたり。

でも、「おやさま」もそういう中をずぅ〜とお通りになったんだなぁと。

その、親の苦労、「おやさま」の苦労が万分の1でも分からせていただけた。

それがなんとも、嬉しいやら、ありがたいやらで涙が出できました。

神の話に嘘は有ろまい



私には、好きなおさしづがあります。

それは、『稿本天理教教祖伝』第三章「みちすがら」の最後に出てくる『おさしづ』

引用します。

「話を楽しませ/\、長い道中連れて通りて、三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た。神の話に嘘は有ろまい。さあ/\あちらが出て来る、こちらが出て来る、」    

『おさしづ』明治二九年三月三十一日

解釈として、

この道はじまってから三十年ほどの長い間は、寒い晩にも暖をとるものとてなかった。
あちらの枝を折りくべ、 こちらの枯葉をかき寄せてきては、辛うじて暖をとって通り越してきた。
こうした道中を経て、こんにちの道になったのである。
神の言うことは決してまちがっていないであろう。
さあさあ、今はあちらからも、こちらからも遠い国々から多くの人々がこの道の上に出てくる。

『おさしづ研究』420頁

明治29年の背景事情

このおさしづが述べられた明治29年は、内務省訓令が発令された時代です。

これから、厳しい迫害干渉が始まる。

当おさしづは、その迫害干渉に際しての、心構えを諭されるおさしづです。

では、具体的にどのような事例があったのでしょうか?

これはもう衝撃です。

少し長いですが、引用します。

あるときは祭典の最中に、数十人が徒党を組んであばれこみ、三宝をはらい落とし、瓶子をたたき割り、割れ瓦や古草鞋や馬糞を神前に撒き散らしたりという狼藉(ろうぜき)を働いた。とめると図にのって余計あばれるし、とめなければしたい放題、仕方なく警察へ通報したけれど、その警察が逆に天理教の方を取り締まろうという姿勢であったから、すぐに警察へ差し向けてくれるはずがなかった。

また、周旋の家などにも暴れこみ、なんとか喧嘩口論にもちこんで、もんちゃくの種にしようと企んだが、そのたびごとに菊太郎(筆者注―高知大教会初代会長)は、教祖ひながたに道を説き、御苦労を偲んで、一同にたんのうの教理を仕込むのであった。
こうした特別な祭典日とか説教日といった日でなくとも、集談所に石ころや汚物が投げこまれるのは常のことで、会議やねりあいなど少しまとまった人が集まったときなど、危ないことがたびたびあり、礼拝場は危険なので、神床の小部屋で話し合いをしたこともあった。 

『天理教高知大教会史 第一巻』57頁

同じく『天理教高知大教会史』から

あるところでは、駐在巡査がサーベルをガチャつかせながら信者宅を一軒一軒巡回して臨検し、「天理教は今度国法によって淫祠邪教と断定され、いよいよ取り潰されることになった。お前たちも、あんなものに騙されておったら監獄行きになるぞ。」と脅し、お祀りしてある神実様を焼き捨てさせたり、あるいは、お社ごと川へ流されたりした。
また、「天理教の信心をしているような家には診察には行ってやらん。」といって、往診を頼みにいっても、忙しいとか手が離せないなどと理由をつけて、診てくれない医者もあらわれた。
 さらに、「お前のところは天理教だから、内で葬式や法事をするわけにはいかん。」と、未改式であるのに信者に圧力をかける寺院。
「お前の家は天理教に改宗したのだから、天理教で葬式でも何でもしたらいい。しかし神道の者を寺の墓地へ埋めてもらっては困る、断る」と、先祖からの墓地が寺の境内にあるのに、埋葬を断られるといった例さえ見えてきた。
また、同じ村人の中でも、「あの人は天理教へはいったそうな。」と、一旦噂が村中へ流れると、近所付きあいもやめる家が続出、まるで疫病神のように嫌われた。     

   『天理教高知大教会史 第一巻』616~620頁

これはほんの一例で、他にも大教会史にはこのような記述が数多く見られます。

(参考資料:飯田照明『迫害・受難のいばらを超えて—初代真柱様・二代真柱様の御苦労の道―』)



ところで、当時の人たちはどのような心境だったのでしょう?

想像することしかできませんが、きっとこのように感じていたのではないでしょうか?

・人たすけしてるのに、どうしてこんなに辛い目に遭わないといけないの?

・神様の御用をしていて惨めな目に遭うのなら、もうやめてしまいたい


そのような、世間からの圧迫干渉の中で、

神様は信仰者としての重要な心の置き所として、おさしづを下さっています。

もう一度引用します。

「話を楽しませ/\、長い道中連れて通りて、三十年来寒ぶい晩にあたるものも無かった。あちらの枝を折りくべ、こちらの葉を取り寄せ、通り越して来た。神の話に嘘は有ろまい。さあ/\あちらが出て来る、こちらが出て来る、」    

『おさしづ』明治二九年三月三十一日

この道はじまってから三十年ほどの長い間ほ、寒い晩にも暖をとるものとてなかった。

あちらの枝を折りくべ、 こちらの枯葉をかき寄せてきては、辛うじて暖をとって通り越してきた。

こうした道中を経て、こんにちの道になったのである。

神の言うことは決してまちがっていないであろう。

さあさあ、今はあちらからも、こちらからも遠い国々から多くの人々がこの道の上に出てくる。

「おやさま」の道


「おやさま」も、世界一列をたすける為、たすけ一条の道を始められます。

しかし、待ち受けていたのは、家族・親族からの反対。

官憲からの圧迫干渉。

たゞ一日の遊山も、良い所へ行きた事無いで。

『おさしづ』明治三十五年七月二十日

とも仰せくださっています。

その中をただ、神様を信じて、神一条に歩まれました。

その結果、いまのお道がどうなっているのか。

神様の言うことは間違いないだろうと。

結構になってきただろうと。

今では、あちらからもこちらからも人がたくさん来るだろうと。

その「おやさま」の足跡があればこそ、私たちはどんな中でも、たすけ一条の道を歩めるのだと思います。

先程引用した、『天理教高知大教会史 第一巻』にも、

また、周旋の家などにも暴れこみ、なんとか喧嘩口論にもちこんで、もんちゃくの種にしようと企んだが、そのたびごとに菊太郎(筆者注―高知大教会初代会長)は、教祖ひながたに道を説き、御苦労を偲んで、一同にたんのうの教理を仕込むのであった。

と記されます。

「おやさま」も迫害干渉の中をたんのうして通られた。

そうして通られたからこそ、いま現在の姿があるやろと。

それを、お前たちも分かってほしいと。

そう説かれたのではないでしょうか?

「おやさま」の道すがらの『おふでさき』

「おやさま」の道すがらとして、『おふでさき』に次のように記されます。

このさきハみちにたとへてはなしする
どこの事ともさらにゆハんで  (1-46)

やまさかやいばらぐろふもがけみちも
つるぎのなかもとふりぬけたら  (1-47)

まだみへるひのなかもありふちなかも
それをこしたらほそいみちあり  (1-48)

ほそみちをだん/\こせばをふみちや
これがたしかなほんみちである  (1-49)

このはなしほかの事でわないほとに
神一ぢよでこれわが事  (1-50)

神様の道には、9つの道があると拝察します。

山坂、荊畔、崖道、剣の中、火の中、淵中。

そして、やっと細道。

それを越せば、大道。

これが確かな本道である。

つまり、9つの道のうち、7つは厳しい道なんですね。💧

その中を神一条で通られた。

それが「おやさま」のひながた。

たすけ一条の上に苦労はありますが、

苦労することで、親の思いが分かります。

また、

神の話に嘘は有ろまい、というように

神の言うことは決して間違っていません。

まだまだ顔に「あまい」と言われる私ですので、親の思いが分かるように、もっともっと苦労させていただきたいです😌



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