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「それなりの人生」の価値観について

以前書かせてもらった、帯状疱疹の症状は無事に収束。若干気になるくらいのあった痒みのあった瘡蓋(かさぶた)もスムーズに収まってきました。


私という拙い人の造りとしては、突発的なストレスの原因になったと思われる他人について、沸々と、自分本意な人を嫌う思いが湧いてくるのを感じたりもしましたが、マナーとして、感じる悪意にそれを返すようでは社会が成り立たないので、拙い感情はご愛嬌です。

余談をいえば、他人が自分を押し通すための素材や標的にされるのはお断りですが、他人には他人なりの成長に必要な過程があって。失敗を生かせる環境に恵まれていることを、どう捉えられるかが肝要だと、私は思います。

私には、(先ず自身について)その制御を困難に思える時、「"それなりの人生"になるかも知れないけど、それ程の事かな」と考えてみる、トリセツがあります。これは、私自身には非常に効果的で。結果、疲れを感じるものはその通りしんどいのですが、悪意のある第三者に際しても、自分を冷静にさせる効果的なワードです。

同時に。試行錯誤しつつ、自分なりにも最善を尽くしている時に、他人の成長に必要な過程に付き合える余裕がない時もあります。ただその時も、(他人に向けた)"それなりの人生"は魔法の言葉で、自身の感情を落ち着かせると同時に、呪いの言葉のようにも感じます。

人の繋がりや思いは、そう簡単に断ち切れないので、他人を裁くような思いはできるだけ避けたいとも思うけれど。

この度、この人生が招いたストレスに感じる出来事は、私の身体にも影響を与える傷を負わせたけれど、(少々おかしな表現でいえば) 私はそれをもとにした失敗を犯さずに済ませることが出来ました。

これは、この度の成果かもしれないと思っていて。たとえば、事情を知って今日までを支えてくれた、私の周りで存在してくれる人たちに、心から感謝していたりもします。

だから総じて、この度の事象(も)、私自身の人生の糧にしかならないのかもしれない。とか。

素直にいえば、この今もまだすっきりした思いにはなれないでいるのだけど。それは、未だ自分の器量が足りない事と、出来もしないのに他人にも期待値を置いた、昨日の自分の至らなさのツケだと、整理したいなと思っています。

A Life That Is Good Enough

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