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#23 マタニティマークをつけて思うこと。
2020年10月20日。
ただいま妊娠4ヶ月、あと2週間で5ヶ月目に突入する。そんな私がマタニティマークをつけ始めて約1ヶ月半が経つ。
どちらかというと、体型はやせ型。
私自身はおなかのふくらみが目立ってきていると感じているが、遠目から見たら妊娠してるとは思われないだろうな......と感じるくらいだ。
話がずれてしまったように感じるが、この記事では、実際につけて思ったことと気づいたことを書いていきたいと思う。
マタニティマークをつけるのが怖い
私はそう思っている。
できることならつけたくない。
マタニティマークをつけると決めたのは、予想以上につわりがひどかったからだ。
つわりはいつ出るかわからない。
朝や夜など、家にいるときであればおとなしくじっとしていればいい。けど、外出先や通勤途中など、どうしてもSOSを出さないといけない事態になったときに状況を把握してもらいやすくするためだ。
が、やっぱり、『マタニティマークの効果はあるのか?』と疑問もあり、つけ続けることに怖いなと感じることのほうが多い。
それは、ニュースの影響が大きい。
ニュースのひとつとして見ていたからうろ覚えではあるが、高齢の男性が子連れ妊婦のおなかを蹴った......というニュースは印象が強すぎた。この男性のような人は少数と信じたいが、他にも妊婦とかマタニティマークとかのネガティブなニュースを聞くこともあって、『マタニティマーク=リスクを高めうるもの』という認識が引っかかる。
それでも、産むと決めたからには、自分の身も子供も守らないといけない。他に守れる人はいない。その思いだけがマタニティマークをつけ続ける原動力になっているように感じる。
マタニティマークをつけて気づいたこと
マタニティマークをつけ始めて、周りの人に気づいてもらえないな、たとえ気づいていたとしても『見てみぬふり』を決めこまれてるんじゃないかと感じている。
こういう書き方をすると、『妊婦になって権利だけ要求しやがって』とか感じる方も一定数はいるだろう。誤解のないようにお伝えしたいのは、妊婦だからといって丁重に扱うよう強要するつもりはないし、そうしない人に対して批判したいわけではない。
私の場合は、妊娠によって『見てみぬふり』とか『自分さえ良ければいい』と思ってる人が多いんじゃないかとかを強く感じるようになったにすぎない。それは自分にも当てはまる。
たとえば、バスや電車など公共機関での座席。
これまでの私も、座っている目の前に高齢者が立ってたりしても、『ごめん、眠すぎて寝たいから』とかで席を譲らないこともあった。相手がどう思うか、どんなリアクションをするかわからないけど、『席譲りましょうか?』とひと声かけても良かったな......とか。
個人的な感覚になってしまうが、『見てみぬふり』を決め込んだり、『自分さえ良ければいい』と考える人が多いんじゃないかとは感じる。これは、『他人に対する不寛容さ』そのものだ。
他人に対する不寛容さを見直す
不寛容になったのには理由があるはず。
コロナの影響、経済状況、こころの成熟度(未熟さ)、個人の経験、孤独......。それ以外にもあるだろう。あらゆる要素が重なった結果だし、理由には個人差があるから特定はできない。が、不寛容さは無関心から来てるんじゃないか、とは思う。
ご時世の影響もあるのだろう。
『良かれ』と思ってやったのに、全力で否定されたり怒られたり暴力をふるわれたり......トラブルや事件に発展したならたまったもんじゃない。
手助けをしたいと思っても、リスクをともなうと想像できるなら関わらないほうが無難と考えるのも理解できる。本当は情に厚い人だとしても、他人に対しては無関心にならざるを得ない事情もあるはずなのだ。
そんな中でも言動をあらためる術はないだろうか?と考えたときに、行き着いたのは『ていねいな受け答え』だった。
『今もやってるよ』って思う人もいるだろう。
が、本当にそうだろうか。あらためて自問自答してみてもいいんじゃないかとは思う。
始めやすいもの......ぱっと思いついたのは『挨拶』。
『おはよう』だけじゃなくて、『ありがとう』とか『ごめん』とかそういうことも。意外に言えない(言えない)人もいる。自分ができているから、みんなできて当然、ということはないのだ。
まとめ:マタニティマークをつけて思うこと
マタニティマークは、確か、妊婦が外出しやすいように、また周囲の人にも配慮をしてもらえるようにできたものだったんじゃないか......と記憶している。が、今となっては本来の意図とは違うであろう解釈もされて、浸透してる可能性はある。
それは、社会が変われば人も変わる。人が変われば社会も変わる。
いろいろな価値観があるから、すぐに社会を変えるのは難しいだろうけど、個人レベルなら変えるのは簡単だ。
自分の当たり前は他人の当たり前とは限らない。
日々、感じたモヤモヤを自分がしないようにする。小さなことでも始めてみるのはどうだろうか。