悩んでいる人へのアドバイスは無意味なのに、気持ちいいからやってしまう話
目の前に悩んでいる人がいたら、どうするだろうか。
話を聞いてあげる、共感してあげる…さまざまな模範解答があるように思う。けれども、ほとんどの状況で効果を発揮しない対応がある。それが正論をアドバイスするということだ。
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先日、新卒で入ったベンチャー企業の同期とオンライン飲み会をした。顔をあわせるのも、2年ぶりくらいだ。
「いま、どうしてるの?」とお互いの近況報告をすることになる。
女子会とかだったら恋愛話に花がさくのだろうけど、新卒でベンチャー企業に入るような者たちだ。近況のほとんどは、ゴリッゴリに仕事の話になる。僕自身は環境に大きな変化はなかったのだけど、みんな各々の道を歩んでいた。
ひとりの同期が今後のキャリアで悩んでいる、と語った。
彼女は、普段海外で働いているのだけど、新型コロナウイルスの影響もあり日本に帰国している。どちらかと言えば頭が使うことが得意ではなく、行動力と愛嬌で乗り切る!というタイプの女性だ。
「日本でリモートで仕事をしてるけど、海外に戻れるか不安…。」
「発展途上国だから給料がいいわけでもないし…。」
「ベンチャー企業だから、業務の幅が広すぎてこれだ!って言えるスキルがつかない…。」
などの悩みがでてきた。いまのこの状況下では、悩むのも当然だ。これに対して、僕はいろいろとアドバイスをした。
「一旦、日本の大企業の海外部署に転職を考えてみたら?」
「スキルよりも、海外で働いた経験を活かしていこう!」
「いまの状況(新型コロナ)が続きそうなら、早めに動き始めた方がいい。」
ザ・正論。何も間違ったことは言っていない。
そんな感じで、あーだこーだ話しつつ、みんな酔っ払ってきたので、その日の飲み会はお開きとなった。
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翌朝、目覚めたとき僕はひどく後悔した。気持ちよくなって、いろいろとアドバイスをしたけれど、彼女の悩みは何ひとつ解決していないように思えたからだ。
人にアドバイスをするのは、気持ちがいい。なぜなら、そこにはマウンティング性とでも言うのだろうか、上から目線の優越感みたいなものが内包されているからだ。
安全地帯から、何のリスクも追わずに言いたいことを言う…考えれば考えるほど、自分勝手な行動に思えてくる。でも、気持ちよくなって、ついついやってしまうのだ…。
そもそも僕が提示したアドバイス程度であれば、当事者であれば当然頭の中にあるわけで、何の新しさもない。僕は海外で働いた経験がある人のキャリアパスにも詳しくない。彼女のほうがよほど知識があって、釈迦に説法というようなものだ。
しかし、それなら悩みを話すこと自体意味なくないか、とも思う。聞き手としてやってあげられることはなんだったのだろうか。
悩みの全貌を聞き出す
ほとんどの悩みは、何が問題なのかわからないから悩みなのだ。まずは悩みの全貌を聞き出して、並べてあげる。
そうすると、状況が整理され、悩んでいる本人が悩みを客観視することができる。何が大切なのか、どこから手をつけるべきなのか、とより具体的な思考がはじまる。悩みが、解決可能な問題に翻訳された瞬間だ。
ここまでくれば、自分で解決策にたどりついて腹落ちすることも多い。自分で考えて決めるのだから、納得感もある。いきなり解決策に飛びつかないことが大事なのかもしれない。
具体的な機会を提示する
もっともらしい正論は役に立たないけれど、具体的な機会(チャンス)は役に立つ。
例えば、キャリアの悩みであれば、いいポジションの仕事を教えてあげるとか。恋人ができないことが悩みなら、合いそうな相手を紹介するとか。
具体的な選択肢があるからこそ、動きだせるということもあると思うのだ。だからこそ必要なのは、正論ではなく、具体的な機会(チャンス)。
ただ寄り添う
どうしてあげることもできない悩みもあるかもしれない。ずっと背負っていかないといけない類の悩みなど。身体とか、家族とか、性とか…。
僕は、今までこのような種の悩みを抱える人に遭遇したことはない。人に話したところで、どうにもならないしね。
この種の悩みには、ほとんどの場合深入りしないほうがいい。
解決もクソもないので、やってあげられることといえば、ただ寄り添ってあげること、話を聞くことだけのように思える。
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とまあ、こんな感じだ。ただただ「話を聞く」という作業は、よほど話が面白くなければ苦行である。だから、ついつい自分の意見を表明したくなってしまう。結果、何も解決しない。そういう意味では、良い聞き手への道のりは険しく、精神的修練が必要なことなのかもしれない。