対談 池田大作は語る:後へ続くひとのために(昭和44年)(1)小林正巳(毎日新聞記者)

<大きな悩み・小さな悩み>
小林  誰でも、青年期には 、いろいろな悩みがあるものですが、「 若き日の日記」を拝見しても“広宣流布” という至上目的に対する悩みはあっても、私生活にまつわるような、小さな悩みはうかがえませんね。経済的に苦労されても、貧しさが少しも惨めさにつながっていないというのでしょうか。たとえば、「今日は生活費、逼迫す。金欠病となる。いやはや」といった具合に、全然、じめじめしたところがないのですね。

池田  じめじめしないのは、きっと江戸っ子のせいでしょう。私にだって悩みがなかったわ けではありませんよ。ただ、悩みに引き回されるのでなく、悩みを引き回すようになることが、大切だと思うんです。その点、江戸っ子気質というのは、トクをしていますね。
 悩みというものは、大きな悩みをもつと、小さな悩みは吹き飛んでしまうものです。さいわいに、私は偉大な師匠にめぐりあって、広宣流布という大目的をもつことができました。ですから、なんとか、その師匠の理想を実現しなくてはならないといぅ、切実な悩みに直面していた、といってよいでしょう。
 身近な悩みも、おそらく人並み以上に あったでしょう。経済的な悩み、体が弱かったこと,とくに体については、胸をやられていましたから…。しかし、生涯をかけた大きな悩みのために、そうした悩みは割りあい影が薄らいでいたことは事実だと思います 。

<苦悩を選ぶ>
小林  悩みのもち方ということになりますか。
池田  結局、人生は悩みの連続です 。誰びとといえども,それを免れることはできません。極端にいえば、悩みがなければないで、それが悩みになることだってあるので 。昭和元禄の太平ムードの今の世の中には、退屈さに悩んでいる人がずいぶんと多いのではないですか。
 要は、どういう悩みを選ぶかです。人生に与えられた選択は、これしかありません。悩みのない人生などというものは、ありえないのですから。
さらに,もう一歩すすめていえば,その悩みと対決し、これを乗り越えていくところに,人生の充実感があります。堂々と人生を生き抜いた人なら、最も苦しかった時が、最も楽しかった時代だったという実感をもっているに違いない。
 たとえていえば、大変な苦労をして山登りをする。それは煩悩です。ところが、その人にとっては,それが楽しみだ。というのも、苦労のない山登りなど、おもしろくもなんともないからです。人生すべて同じ原理です。これを仏法では煩悩即菩提と説いています。
 だが、山登りにも,いろいろのテクニックや知恵が要求されるように、人生の煩悩にも、それを菩提、すなわち幸福へと変えていくには、その法を会得し、英知と力を身につけなけのればならないでしょう 。

<人生の師と指針>
小林  会長は、青年に対して、その純粋さ、正義感、無限の可能性に期待をかけ、無為に過ごしてはならないと、あらゆる角度から指導していますが 、御自身の青年期に悔いはありませんか。
池田  私なりに精一杯やったという実感はあります。
 戸田前会長は、とてもきびしい方で、私は叱られてばかりいました。よく「 鉄は熱いうちに鍛えよ」といいますが、その深い慈愛はわかっていました。十九歳のときから十一年間、師事したわけですが、この恩師の薫陶なくして、今日の私はありえないと思っています。
私の青春時代は、苦闘の連続でしたが、悔いない青春だったと、自信をもっていいきれますね。今となってみれば、一コマ 一コマが、なつかしい想い出ですね。
 なんといっても、青年時代は人生の土台づくりです。どれだけ深く、盤石に築くかによって、そこに建てうるピルの規模が決まる。あとになって悔んでも、なんとかしようと焦ってみても、どうしようもないものが、青年時代にはあります。
 ただ 、そのためには、人生の師、あるいは指針をもつことが大事ですね。根本の道を誤れば、どんなに苦労しようと、カラ回りに終わってしまうのですから。建築だって、正しい建築法を知らねば、いい家ができないのと同じです。その上での苦労は、全部が生きる。
惰性に流れず、環境に負けず、理想に向かって、正々堂々と突き進んでいくこと。これが最も青年らしい生き方だと思います 。

<自分に勝つ>
小林  でも、たいていの人は「長いものには巻かれろ式に、受け身になってしまうのではありませんか。積極的に打開していこうという姿勢になるには、やはりなにか信念がなければならない。
池田  ええ、確かにそうです。信念はエンジンですから。信念をもたないひとは、ちょうど、エンジンのない自動車の形をしたものと同じことです。主体性といい、積極性といっても、根本の信念がなければ、動きようがない。機関車に引かれていく貨車のように、みずからの主体性もなく、動かされていく。そこには、真の自由を知る人の喜びはありませんね。
 もちろん、広い意味では、人間だれしも、なんらかの信念はもっているでしょう。本能に根ざした、きわめて原始的な信念から、高度の哲学性をもった、高次元の信念にいたるまで、さまざまなものがあります 。けれど 、あらゆる人生の場合に 通ずる信念であるためには 、深い哲学的裏づけのあるものでなくてはならないと思う。そこに、高等宗教の求められる必然性があるわけです。
 深い哲理に裏づけられた、高い理想に向かっての戦いは、人生、なかんずく青年期を永久に飾る、輝かしい金文字の記録といえます。前進するところには、必ず抵抗がある。いわんや、高い理想に向かって、一歩一歩登っていくことは、大変な苦闘だ。だが、それを単なる苦痛と感ずるか、喜びと感ずるかは、その人の信念と情熱いかんであり、生命力の強弱によると思う。
 青年のほんとうの幸せは、至れり尽くせりの温室のような環境を与えられることではないと思います 。きびしい風雪に耐え、これを乗り越えて行くだけの逞しさ、充実した力をわが身のうちに実証し、実感していくことだと思います。極論すれば、それはまず自分自身に勝つことだといえるでし ょうね。