人間・池田大作(3)誠実と信頼(1)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第11回
責任をはたす
池田は対人関係で約束をたがえない。ひとたび自分の口からだした言葉には必ず責任を持つ男である。学会の内部であろうと、外部であろうと、だれに対してもチャランポランなことはいわない。そこに 池田に対する人間的信頼が生まれるのだと思う。
この点については,私自身も何度か体験したことである。私は池田との対話の中で創価学会の方針、公明党の方向などについて、しばしば突っ込んだ質問を行なったが、池田の回答とその後の実際とを考えれば、太い流れとして、その通りだったといってよい 。
政治家などの場合、えてして真意が新聞に出て不利を招くことを恐れるあまり、自分を信用している相手に対し、心にもないことをいう場合も少なくない。池田にしても、立場上答えにくい質問もあるが、そうした場合彼は「今いえる時期ではない」と卒直に答える。
約束は約束
私がはじめて池田に会ったのは、昭和三十九年四月,富士大石寺(日蓮正宗総本山)で大客殿が完成した時であった。かねがね、参議院公明会( 公明党発足以前)の取材を通じて、議員から間接的に池田の話を聞くにつけ、直接インタピューしたいと考えていたが、その機会に恵まれなかった。当時,すでに学会世帯数およそ四百万世帯を呼称、学会員ですらなかなか直接池田と会う機会に恵まれなかった。池田は今日でも、できるだけ多くの会員と会う努力をしているが、何しろ七百万世帯、子供をふくめれば、約一千万人といわれる人数である。かりに一日五百人に会ったところで、全部の会員に会うためには、五十年以上かかる計算。一生池田と直接には会えない人たちが多いのが実情である。まして、外部のものが、池田と会うことは容易でなかった。
その点、完成披露は絶好のチャンスであった。私は取材を通じて親しくなった原島宏治(故人、初代公明党委員長)にたのんで池田に紹介をうけたが、挨拶をかわす程度の短い立ち話の中で私は後日インタビューの時間をさいてもらいたい旨、要望した。彼はそれについて確約はしなかったと記憶するが、数か月後「あのときの約束を果たしたい」と時間をとってくれた。
あるとき、池田は私に「今度は六月末に会いましょう」と約束した。その時期は、池田にとってきわめて多忙な時にあたることになったため、私の方から「一段落するまでのばしては…といったが「約束は約束」という返事だった。
誠実の逸話
四十三年秋、奄美大島に渡ったのは、五年前訪問の際、五年後に来るとの約束を実行したものであり、四十四年の沖縄訪問も同様であった。四十三年秋、北海道の僻地を指導に歩いた時、幼い子供をかかえて苦労している一般の女性会員を励まし、十年後の同じ日に東京に招いて某ホテルで食事をともにすることを約束したと聞く。
またそのあと、熊本へ同行した時のことである。池田は指導会に集まった数百人の男女会員に貯金の大切なことを説いた 。そして「 ここにいる人は、二十年後を目標にお金を貯めて、一緒に外国旅行に行けるようになりなさい。二十年後の今日、全員集まって外国に行ったかい(会)をやろうよ」と約束した。
さらに、四十四年八月十五日、東京両国の日大講堂に全国の高校生代表約二万人が結集して開 かれた第二回高等部総会の席上、池田はこの会合を記念して「西暦二千年の同じ八月十五日、ここに出席したもの全員で集ろう」と呼びかけ、会場をゆるがす男女高校生の歓声がこれに応えた。
いずれも、池田以外の口から出た言葉であれば、その場限りの単なるリップサーピスとして聞き流されるところだろう。二千年といえば、池田七十二歳、いまの高校生たちは五十代にも達する遠いさきのことだが、二万の高校生たちは同じメンパーによる三十年後の再会を固く信じて疑わないに違いない。それも約束の相手がほかならぬ池田だからである。どうなることか典味深い。こんなエビソードもある。
あるとき、池田は来客との話の中で、来客が読んだある本についての話がでた。池田は読んでいなかった。客が帰った後、池田はすぐその本を取り寄せて読み、翌日その来客に読んだ旨を伝えた。ちょっとしたことだが、できないことである。
いずれも池田の誠実さを物語る一面だろう。