人間・池田大作(4)誠実と信頼(2)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第12回
まごころの人
池田は、情誼に厚い一面がある。エビソードも多い。
三十一年大阪の参院補選で選挙違反容疑をうけ、当時参謀室長だった池田はすすんで取り調べをうけ、裁判の結果無罫となった。この時の裁判官の公平な態度を忘れず、今でも時節に応じた挨拶を欠かさないと聞く。
以前、創価学会の本をあつかったことのある某出版社が、その後経営不振に陥った際、これを聞いた池田は、資金面でも再建への努力をたすけた。今でも陰ながら激励している事実を私はその方の関係者から聞いたことがある。
数年前、某政党の組織関係をあずかるに池田のほうから面会を申し込んだとの情報を聞いた私は、会見の理由をさぐったことがある。創価学会をバカにした態度をとる有力政治家が多かったころ、敬意を表わすため大石寺を訪れたB氏が死去、その時B氏と同行したA氏に弔意をのベるためだった。A氏の表敬に対する答礼の意味である。
創価学会関係の建設を請負った某建設会社が、他の工事のことでいちじるしく信用を失墜、苦境に立った。池田は変わることなく会社に工事を発注したため、同社の首脳部が感激したのはいうまでもない。池田のために、何でもしたいと礼状を送ったが、彼はこの手紙を返却させた。こうした実例は枚挙にいとまがない。
純粋さを愛す
最近、池田に対して雑誌などのインタビューの申し込みが多い。その場合一流誌をことわり、二流誌の申し込みに応ずることもあった。その理由をきくと「半年も前から何度も足を運んできたときいて、その誠意に負けました」という。彼自身若い頃、雑誌の編集にたずさわり、原稿依頼の苦労を知るからである。
余談になるが、よそに出す彼の原稿は書きなおしが少ないほうだ。ただしたところ、「編集者時代、書きなおしのひどい原稿をもらうのはいい気持がしなかった。全く読むのに苦労した。だから、いちおうできるだけ読みやすいように努力している。大体、きたないのは相手に対しても失礼でしょう」
池田にとっては何事も誠意が大切である。だから、創価学会を利用する目的で近づいてくるものに対しては、きびしい態度でのぞむ。池田が学会員であると否とを問わず、青年を愛し、青年に期待するのも、正義感に象徴される青年の純粋性を愛するからだと思う。
創価学会時間
池田は時間の約束についても、厳格である。日記のなかに、戸田との面接に一分遅れて、叱られたことについての反省を記している。また、戸田が何組かの弟子夫婦を中華料理に 招待した際、遅れてきた一組の夫婦がひどく叱責を受けたことを書き「当然である」とコメントをつけている 。
戸田の指導でもあったのだろうか、約束の時間に遅れることは、相手に対する重大な非礼と映るのである。
そうした点は、創価学会全般にも、かなり普及しているが、一方では“創価学会時間”とわれわれが呼ぶ独特な現象がある。
日本の場合、一般に時間厳守の観念が薄い。いつもはじまるのは定刻の三十分ないし、一時間後というような政党の会合時間を“〇〇党時間”などと皮肉った呼び方もある。
ところが、創価学会の大きな会合では、あらかじめ決められた時間より遅れて開かれることは、まず絶対にないといってよい。それどころか池田が必ず出席する月一回の本部幹部会(参加者約一万五千人前後)などになると、定刻前に始まることがつねだ。
開始の定刻が午後六時だとすれば、一時間前の五時ごろからはじまってしまうことは再々。ときには、開始時の定刻六時には、一切終わって、みな帰途についていたこともある 。これには、はじめ私も戸惑いを感じたものだった。遅れない点では、たしかに時間厳守でも、早すぎる点では厳守にならない。しかし、それにはやむを得ない事情がある。
つまり、六時開始といっても、実際問題として、ほとんどの参加者が一時間前に勢揃いしてしまう。ほぼ会場がピッシリ埋っているのに、定刻にこだわって、二万人以上の人たちにただ時間を浪費させるわけにはいかないからである。
もちろん、かなり大勢の来賓を招いて開かれる文化祭などは、文字通り定刻が厳守されるが、報道関係者などに公開して行なわれる学生部総会など大きな会合でも、一時間程度開会が早まるので、こちらも、それを見込んで出かけるようになる。報道関係者の中から、公 開の会合では定刻にはじめてほしいという要望を伝えきいた池田は、こういった。
「これからは招待状のなかに、定刻より早くはじまることもありますから、あらかじめ御了承下さい、と刷り込んでおくようにすべきだ。二万近い人たちが貴重な時間をさいて集まっているのに、少数の人たちのためだけに開始時間まで待たせるわけにはいかない。時間は価値的に使わなければ…」