七百万世帯をつなぐ師弟のきずな(3)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第5回
筋金入りの師弟愛
ところで、このような師弟関係を支えている主な要素は何か。池田が「自身を犠牲にしても、学会と学会員のためを思ってくれている」という学会員の実感、これだと私は思う。
政治家が、いかに 声を 大にして“国民のために”を口にしたところで、それが真心か、それとも、うわべだけのポーズなのか、民衆は敏感にかぎ分けてしまう。真心のともなわないポーズだけなら、たとえごく一部の人はあざむけても、全体をあざむくことは不可能だろう。最近の指導者たちが、政策的な手腕力量のいかんを問わず、国民に対して指導性を発揮し得ない根本は、そこではないだろうか。
池田にしても、かりに彼自身の地位や名誉を行動の碁準にしているとすれば、数百万の学会員の心からの信頼を得ることはできなかったろう。まして、心の通った師弟関係も成立しないし、ゆるぎないリーダーシップも、みごとな“鉄の団結”もなかったはずである。
池田時代に入って、創価学会は急速な躍進を遂げてきた。公明党の設立、幅広い出版活動、民主音楽協会の組織づくり、海外への発展、近くは創価学園、創価大学の建設など、どれ一つをとっても大事業だが、これらは、すべて池田の陣頭指揮によって実現されたものである。
会長としての池田の日常は、内外の情勢分析、原稿の執筆、将来への思索、マンモス組織の運営,さらに外部との接触もある。その合い間をぬって地方に出かけ、一般学会員たちと車座になって話しあう。一方、ごく些細な事柄にも配慮を欠かさない。まさに、一人数役、数十役の超人的働きを要請されている。
しかも、広宣流布,いいかえれば日蓮の思想を広めていく過程において、失敗や、つまずきは、絶対に 許されないとすれば、一日一日が緊張の連続であることが想像される。その点で、彼は今日も、将来も体を休めることはできそうにない。
そうした池田の生き方、学会員を護っていこうとする姿勢に、会員の心からの尊敬が寄せられ、池田との師弟愛がはぐくまれてきたのである。この師弟愛は、親子、夫婦、恋人間の愛情などと違って、一本の思想のスジ金で貫ぬかれている点で,はるかに強いものがあるようだ。
七百万世帯の創価学会員のなかでは、入信していない夫と、入信している妻との間で,「オレのいうことはさっぱり聞かないくせに、池田会長の指導なら何でもよくきくとは何事だ。夫たるオレと池田会長とどっちが大切なのだ」などともめ事が起こるケースもないではないらしい。そもそも次元の異なる師弟愛と、夫婦間の愛情を同じ次元にすえて、二者択一を迫ること自体、無理なのである。
学会への誤解
なぜ、創価学会における“師弟関係”の実態について多くを費やしたかといえば、創価学会に対する見当はずれな批判や非難の多くは、学会員たちが池田をどう受けとめているかについての理解に欠けている点が多いと思うからである。
私自身も、そうした批判が的はずれなものであることを知るまでには、池田や幹部の側から学会員を見、一方で、一般会員の側からその実態に近づく努力を重ねた。それというのも、創価学会、公明党は現在の世間の評価はどうあろうと、今日の日本のなかで社会的にも、政治的にもかなり影響力をもち、今後一層その比重を増していくに相違ないからである。
そう考えた場合、単に創価学会組織の伸びがどうかといった、ただ量的な面からの分析よりも、日本の政治の将来の動向に関連して、“鉄の団結”に象徴される池田のリーダーシップの本質を見きわめることが、いっそう大切だと思われる。
ある人は、学会員の驚くばかりの熱心さ、池田会長を心から信頼するすがたを見て、狂信的と批判する。また、評論家、学者のなかには、団結の強固なゆえをもって、創価学会をファッショときめつけ、あるいは、池田の立場をカリスマ(54頁)と論評するものもある。もちろん、いずれも基本的な認識に欠けている点では、五十歩百歩といえる。実態を見きわめずに、いわば想像を踏み台として断定をくだす論理の大胆さには恐れいるが、ここらに学者などの限界があるようだ。