師・戸田城聖(1)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第7回
池田大作の人間像を探るうえで、第二代会長・戸田城聖との美しくも、きびしい、師弟関係を欠かすことはできない。池田自身、
「私の人生に戸田城聖先生という恩師がいなかったとしたら、今日の私は無にひとしい存在であったにちがいない」
「私の人生における最大の幸福は、戸田城聖という生涯の師にめぐりあい、師弟の道を貫くことが出来たことである」(人生の恩師)
といっている。それほど池田にとって、戸田との出会いは決定的な事柄であった。
その師、戸田との触れ合いについて、池田は私にこう語ったことがある。
愛情ある叱り
「 戸田先生には、ほめられたことがありません。本当の師弟の訓練とは、本来、そういうものでしょう。しかし、人間形成の過程では、だれか 一人やかましい人がいないと不幸です。“忠言、耳に逆う”で、誰しもイヤなことですが、それを避けるのは不合理なことです。
“鉄(くろがね)は炎打てば剣となる。賢聖は罵詈して心みるなるべし” という言薬があります。批判され、叱られて人間の真価があらわれてくるものです。そこで、自分と同じ境涯にするために、うんと叱る。その言葉通りに、特訓されたわけです 。
たとえば『講義をしてこい』といわれますネ。うまくできなかったというと『勉強もロクにしないで!』といわれる。『この本を読んだか、何が書かれているか』。それに 答えると『ウソだ、虚勢をはるとは、おこがましい』と叱られる。そのとき、自分を試されているのだと実感していました。この指導あればこそ向上があったのです。
注意してもらった方が、さっばりして、クスリにもなる。自分を思って叱ってくれているのか、どうかは寒暖計のように心でわかってしまうものです。だから、同じ叱っても、上に 立つものに、下への愛情がなければ指導になりません」
「戸田先生は、あらゆる苦労をなされただけに、指導はきびしかった。ウソを最も嫌い『成長期の青年は、ごま化しはいけない。正々堂々真実でわたり合え』ときかされました。
『革命は死なり。死を決心せねば、何事も成し遂げられるものでない』との言栗は、最も耳にやきついた指導です」
「昔は、一部の学会員は非常識で、言葉づかいは悪いし、イヤになったこともありました 。戸田先生がおられなかったら、学会をやめていたかもしれません」
こうして、戸田の想い出を話すとき、池田はいつでも懐しそうな表情である。
十九歳の出会い
池田がこの師、戸田とめぐりあったのは、池田十九歳、昭和二十二年の夏のことである。彼は小学校時代の友人から「生命哲学」についての会合があることを聞かされ、好奇心から誘われるままにでかけた。これが、池田の生涯を決することになろうとは、池田自身知るよしもなかった。
この時の模様は、池田が書いている「人間革命」に詳しいが,それから十日後に池田は日蓮正宗に入信、戸田のもとで創価学会員となった。
一般に入信といっても、健康上の悩み、仕事のゆきづまり、精神的苦悩その他、動機はさまざまである 。
私は新聞紙上での対談記事を書く必要から、池田の入信の動機についてあらためて問いたことがある。限られた紙面であったため、この問いに対する池田の答えは、ほんのひとことしかのらなかったが、保存しておいたメモにはこう書いてある 。
「戦後の混乱期にあって、未来に 生きる力強い人生観を求めていたことは事実だったが、入信について、これという特別の動機はなかった。ただ、戸田先生にお会いした時、その確信、溢れる人間味にふれて、深い感動を覚えた。
それは単なる言葉でもなければ、挙動でもない。この人についていけば間違いない、という激流にも似た強い感情が、私の胸の中をよぎった。
戦争中、牢獄にいて、軍部と戦い、戦争反対を叫んだこの人の言うことには、絶対ウソはな
いと確信したのが、決定的な入信動機といえるかも知れない」
池田は「人生の恩師」の中でも、戸田の話にふれて,「話の内容は最初、さっぱりわからなかったが、どうやら仏法の話らしい。そう思っていると、身近な日常の生活や、現代の政治についての鋭い洞察も語る。そしてまた、急に 難解な仏法用語がでてきて、私には実に 不思議な未聞の哲学に思えた」
と書いている。これからみても、池田が宗教上の確信を抱くようになったのは、いくらか後のことで、直接的な入信の動機は、戸田に対する人間的な信頼、尊敬の気持からだったようだ。
きびしい薫陶
以来、戸田が亡くなる昭和三十三年四月までの十余年間、そのきびしい薫陶のなかに青年期の池田の成長があったといえよう 。
入信後、間もなく、池田はそれまで勤めていた企業団体から、戸田の経営する出版社に移っ ている。ここで、少年雑誌の編集にたずさわるが、昭和二十五年、事業が不振にあえいだ時も、多くの人が去るなかで、池田は一人戸田をたすけ、事業の再建と、創価学会の発展に文字通り、身命を賭して戦い抜いた。
夜学に通っていた池田は、このため学業を諦めざるを得なくなるが、池田はその代わりに、その後数年にわたって、戸田から個人教授をうけることになった 。
仏典や、日蓮の「御書」の解説はもとより、教授の内容は法律、政治、経済、物理、化学、天文学、漢文など、語学をのぞいて幅広い範囲におよんだ。
戸田は、自分の持っている知識のすべてを池田に授けようとし、池田も懸命に戸田の教えを吸収した。池田はその著「科学と宗教」などにも、自然科学に関する知識を示しているが、そうした理解も、このころの薫陶がものをいっているのだろう。