人類みな一つ(1)新しい価値観「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第42回

生命の世紀
 しばしば述べてきたように、池田は人間性尊重による平和社会の実現を構想し、過去二十年余、それを確信して彼の戦いが進められてきた。いま池田は約三十年後の二十一世紀に 賭けて、遠大な構想に一歩一歩近づこうとしている。たまたま、時代は人命が交通事故で簡単に奪われている現実、公害また大学紛争などから経済発展のカゲの人間疎外の問題がクローズアップされ、折にふれてジャーナリズムでも人間回復の必要が論じられるようになった。
 一方四十三年ごろから登場した未来論は二十一世紀の科学文明の発達と経済繁栄を占っているが、池田は二十一世紀を生命の世紀と展望する。古くして新しい生命の尊厳を現実の問題としてとりあげた彼は、最近「二十一世紀について」と題する随想(総合雑誌「潮」)のなかで
「生命の世紀とは、人間の生命、幸福、キャラクターはいっさいの目的であって、絶対に手段としてはならないという考え方が徹底した社会である。戦争は、人間生命それ自体を手段とし、いやもっと率直にいえば消耗品として扱う恐るべき罪悪なのだ」と述べ、その根源は人間性よりも国家的利益を優先させてきた既成の価値観にあると指摘している。
 
国家と人間
 その観点から、池田は米の月ロケット,アポロ11号に関連した随筆「壮挙に想う」(サンデー毎日)のなかで「国家の原理」と人間の関係について問題を提起している。
 「国家は徴兵権もあれば、殺人を命令する権利もある。その国家に人間の価値の終局のよりどころを求める国家観に、現代地球上に住む人たちの不幸の要因がある。一体国家という存在は、人間が人間性を倒奪されてまで、奉仕するに値するものだろうか。
 たしかに人間は国籍においていずれかの国家に屈するが、それによって、直ちに国家の至上命令に制約されるとは奇怪ではないか。人間は政治的に国家の一員であるよりも、まず地球に立つ人間であることを忘れて議論してはならない」(筆者要約)
また「地球人の自覚」(潮)と題して
 「生命の尊厳が叫ばれながら、国家だけは白昼堂々と大量殺人の事業に狂奔している。自国の青年たちを死地に追いやり、他国の民の頭上に無差別な爆弾の雨をふらすなど、これに過ぎる矛盾はあるまい」
 「一つの国民、民族の中においては、あらゆる利害の対立や考え方の違いも、話し合いによって解決されるルールが確立されている。
 それは根底にナショナリズムという運命共同体の意識があるからである。同じく全人類を包含する運命共同体の意識の確立こそ,この世界を対立抗争の修羅場から信頼と調和の世界平和に訴える大前提であると訴えたい」とも述べている。すなわち,ナショナリズムを乗り越える世界連邦の思想である。
 池田の指摘するように、一瞬にして人類を破滅に導く核兵器がそれぞれの国家のため に作られる事実を考えれば、その脅威から人類を守る道は人間の原理」と「 国家の原理」を逆転させなければならない。これを今日の各種の公害対策に置きかえるならば、同じく「人間の原理」を「経済の原理」のうえにおく姿勢で取り組まねばならないことは自明である。そう考えれば、池田の示す理念に誰しも異論をさしはさむ余地はないだろう。
 だが、現実の国際関係はどうか。ベトナムでは若い青年の命、そして女子供までが「国家」のために殺され、全面戦争は東西間の力の均衡によって、どうやらまぬがれているのが実情だろう。その意味で今日の平和は、明日の平和を約束していないのである。
 そして戦後二十余年を経た今日の日本でも、再びしのびよる戦争の影を感じはじめている人も少なくないし、また理由のないことではない 。
防衛産業の膨張は必然的にその危険性を助長せずにはおかないだろう 、政府与党の有力議員の口から東南アジアヘの武器輸出やら民兵組織の構想が堂々と語られるようになってきたからである。
 死の商人の役割もはばからない感覚がまかり通るようになったこと自体、きわめて危険な兆候だし、またぞろ十数年前 霊がさまよいだした感じがしないではない。
 そうした今日の国際環境からは池田の構想はまった空理空論としか映るまい。だが、逆にいえば、そうした危険な曲がり角にさしかかっている今日こそ、池田の発言に意義があと思う。
 
二十一世紀への思想運動
 
 もっとも、地球民族主義という言菓に現わされるこの考えは、すでに二十七年、戸田によって唱えられ、池田自身、十数年来主張してきたところである 。
 ただ、多くの人たちにとって、そうした時代の到来は幻想に過ぎないだろう 、創価学会の発展過程で現代における奇跡を演じてきた池田にとって、それは決して単なる幻想ではない。
 国際的規模における彼の思想運動の拡大によって二十一世紀に全人類の運命共同体意識が、個々のナシ ョナリズムを克服するときがくると予想し、現にその実現に向かって主体的な努力を傾むけているのである 。
 四十四年八月の高等部総会で、池田は公称二十万という会員高校生に向けて、原水爆反対のタイマツを次の世代へと引き継ぐとともに、国際関係の障害となっている言語を克服して将来海外に飛躍するよう指導している。それも、彼にとって二十一世紀への具体的布石のひとつだが、泄界平和の確立という目的自体、最高の価値を追求する宗教上の求道心に直結しているといってよい。
 冷酷な政治や経済のメカニズムは、米国の軍需産業関係労働組合に「軍事費削減反対」を叫ばせるようになっている。今後日本にそうしたことが起こり得ないといいきれるだろうか。私は日本が 再び危険な淵にさらされるとき、『人間の原理』の優先を説く池田と、数百万の精神武装集団が日本における最強のプレーキになることを疑わない。