人類みな一つ(2)広がる海外布教の輪(2)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第44回
外人との師弟関係
Rさんを含めて四十四年五月の創価学会総会には 、海外から五百人に近い代表が参加したが、ちょうどRさんの話に出てくる実例もある。
米サンタアナ部隊長を務める元ヒッビー族の米人青年の話。
「あるとき、誘われて出た座談会は今までみたことのない光景だった。普通アメリ力では考えられない、いろいろな人種の人がまったく仲良く話しあい、会合は爆発的に楽しいものだった。入信して題目をとなえはじめてからというもの、胸のもやもやもなくなり、今までに 味わったことのない歓喜がわき起こってきた」
同じ総会に 代表として出席したなかには、ニューヨークを拠点に活躍しているハーク パネスバレー団( 約四十八人の団員のうち半数が学会員)団員男女八人が含まれているが、バレーと信心の関係について「技術的に未完成でも信心によって自分の表現したいものが表現できるようになった」「信心によって自分のダンスが大きく変わった。信心によって人間革命ができ、そうした自己の成長が全部バレーのうえでの成長につながっていくことを知った」と述べている。
とくにここで興味深いのは、池田と外国人会員の師弟関係が心情的にも日本人の会員の場合と全然変わらないことだろう。ハリウッドの部隊長をつとめる青年は「池田会長にお会いして誰でも包みこんでいく慈悲と真心を感じました」、やはり部隊長の女子部員は「会長の前て思い切り歌うことができた喜びを口ではいい表わせません 」、そして誰もが「池田会長の指導を忘れずに広布のために頑張ります」と口を揃えるのであ 。
この点についてニューヨークでフリーの評論家として働く婦人会員のAさんは「深い学問の造詣と仏法からにじみ出る人間味をかね備えた人物は池田会長をおいてはない。総会 出席した海外会員の一人一人がこれを身をもって感じた。とくに人をなかなか尊敬できないアメリカ人にとって奇跡に近いできごとだ」という。
アメリカ人がその通りの性格かどうかはともかく、人種を越えた池田の人間的吸引力はたしかに不思議というほかはない。
世界注視の学会
創価学会がこうして洵外でも着実に組織を伸ばしていることに対する外国の関心は、日本国内で想像するより、はるかに強い。
数年来、東京在住の各国大使はじめ、多くのジャーナリストが池田と会い、東京文化祭では米英などのテレピ会社数社が、スタッフを送りこんで取材にあたったのもその現われだろう。アメリカではこれまでにカリフォルニア大学など四つの大学で現地の学会員幹部を講師に、日蓮正宗のセミナーが開かれ、四十四年三月にも二つの大学でセミナーが開かれているほどである。
日本国内ではまだそれほど創価学会が政治勢力として重視されていなかった三十七年ごろ、私はソ連大使館のレセプションの席上,大使館の書記官から創価学会についていろいろ質問されたことがある。彼が読んだ創価学会に関する本についての質問だったが、私自身当時まだその本を読んでいなかったため、返答に窮したことを記憶している。その後も他の大使館員から池田について質問をうけ、また、在日外人などからも創価学会について聞かれたものである。外遊する人たちで創価学会について質問をうける人も多いときくが、そのため外遊にあたって予備知識を仕入れたいと依頼されたこともある。それから考えて、来日した外国人などから創価学会の実態についてたずねられる人はよほど多いに違いない。だが、間かれる側がはたして比較的正しい認識をもっているかどうかはきわめて疑わしい。
学会への認識不足
なぜなら、広い知識を持っている部類のマスコミ関係者ですら、池田および創価学会の目的や実態に対する認識が、意外なほど低いことは私自身日頃感じさせられているところだからである。
創価学会ファッショ論、池田カリスマ論をはじめ、「政権をとって創価学会の教義を国教として全国民に押しつける意図ではないか」等々、一般的には「創価学会は池田を教祖とする新興宗教団体ではないのか」といった無認識も依然あとを絶たない。
それには、理由がないこともない。米、英、仏などの新聞、テレビなどではごく断片的にせよ、創価学会員の活動の実態が紹介されている。ところが地元の日本ではかつて創価学会の折伏による地域社会の摩擦などを批判的に取りあげたことはあっても、創価学会の理念、目的、組織の実態といったものがマスコミでまともに取りあげられたことは皆無といっていいほどだ。
数年来、公明党の動きだけは、国政あるいは地方政治への影響力が大きいところから報道されるようになったが、それは創価学会の活動範囲の一部でしかない。創価学会即公明党と考えるのは明らかに間違いなのだ。創価学会自体はより本源的なものであり、奥行きもひろい。そして組織の規模、活動の幅からいっても形骸化した他の宗教団体の比ではない。既成の概念による単なる宗教団体の限界はとうに越えた大きな思想集団なのである。だがそれでいて、一般の人たちは創価学会について正確な知識を得る機会が与えられていない。
同じ組織でも、これが労働組合でもあれば、組織の動向、活動の実態、主要な人事に至るまで、詳細に報道されるであろうことを考えれば、正当な評価を欠いていることになろう。
その背景には日本の社会ではまだ、宗教団体全般に対する独特の偏見が存在する事実も否定できなだが、こうしている間も、池田の率いる思想運動は着々と日本の社会に根をひろげつつある。
その動向が 国民体に影響力をもった今日、一般国民として創価学会について無関心ではいられないはずである。そうした意味からも、もはや一宗教団体の枠をはなれて、報道面で実情に見合った位置づけがされるべき時期ではないかと思う。
本質をつく外人
ところで、米国人(もちろん、非学会員)の場合は、創価学会に対して先入観がないせいか索直な見方をする点で一般の日本人とは対照的である。米日した際、創価学会について研究したL氏(米国の某大政治学講師)は「日本の評論家はともすると皮相的な見方をするが、私が見た限り、創価学会の大衆運動は今までの運動とは大きく様相を異にしている。人間性の失われている現代社会で、人々は疎遠のギャップを小さくするため創価学会を求めている。人間の不信、不平をなんらかの形で吸収し、それをより建設的な方向へ変えている学会の果たす役割りは大きい」と率直に評価する。
また、英国のテレヒ番組で日本特集の一部として創価学会を紹介するため、取材に来日したプロデューサー補佐氏は「学会の組織はピラミッド型社会構成の典型だが、一つだけ重要な点で相違がある。学会の組織は生きており反響し,反応する。そこではピラミッドの底辺と頂点との間に、大変重要な触れ合いがある。池田会長は皇帝のような遠く離れた存在 ではない」と述べている。
彼は四十四年の創価大学の起工式で、池田と式に参列した多勢の学会員との触れ合いをみて「こういう光景が最も起こらないと思われたのがこの日本である」といい,私は創価学会を知って、日本にとって何か重要なことが起こっていると確信するようになった。当然の道理として、こうした現象は世界にも通ずるに違いない」との感想をもらしている。
短時日であるにしても、自分の目で耳で確かめたうえの発言である。批判に急なあまり、本筋を見失っている一部の人たちに 比べれば、事実関係の認識においてもより正確につかんでいるといえよう。
いずれの場合も、大事なのはものごとの本質をつかみ、そして太い流れの方向を把握することではないかと思う。