七百万世帯をつなぐ師弟のきずな(4)「現代人物論 池田大作」小林正巳著(昭和44年9月25日)第6回
誤解をうむもの
それにしても創価学会に対して多くの誤解があるのはなぜだろうか。宗教に対する日本人特有の感じ方、折伏をうける側からすれば、その熱心さを執拗さと受けとめての反感もあろう。また一般会員のごく一部のゆきすぎが、あたかも創価学会全体かのように誇大に伝えられたことも確かである。
だが、もっと根本的には、世の中、万事地位や権力やカネなどの有形の利害関係で動くものと割りきる現代のいびつな思考様式にこそ、問題の本質があるのではなかろうか 。
たとえば、大学紛争の遠因を考える場合、一面からみれば、学生の教授に対する人間的信頼の喪失である。これでは教育効果があがらないのはむしろ当り前で、教授たちはゲパルト騒ぎの中で無能ぶりを露呈することになった。もし、教授と学生の間に人間的な信頼の絆があったとするならば、紛争自体もっと違った経過を辿っただろうし、少なくとも、教授たちの頭上にゲバ棒が振りおろされたり,“お前” 呼ばわりのつるし上げが行なわれる事態は起こるまい。
一般社会に目を向ければ、サラリーマンは上司が、自己の出世のために部下を踏み台にしているのではないか、という不信。政界、産業界、教育界と、あらゆるところに、人間関係の“不信”が渦巻いているのが実情である。
企業は利澗追求のために、公害をまき散らしても、その責任から逃れようとし、多くの政治家にしても、国家よりは党、党よりは派閥、派閥よりは個人の利害が優先するのは、われわれの日頃知るところである。そして圧力団体の横車など、節度のないエゴイズムが発想の起点、行動原則になっているのが現代の風潮だろう。
直視すべき学会
それを批判ないし非難してみたところで、実際問題、人間自体のエゴイズムがほどほどにコントロールされない限り、どうにもならない面がある 。しかもお互いにエゴを暗に認めあっている“せち辛い”ご時世であってみれば、有形の利害関係の一致がないところに信頼関係は成り立ちにくいのである。そうした目からは、創価学会の“師弟関係”、同志的結合はまったく異質のものとしてしか映らないから「頭がどうかしているのではないか」といった乱暴な話にもなる。
だが、現に精神的につながる師弟の組織が、今日の日本に存在することは、たしかなのである。もちろん、信仰の度合にもよるだろうから、全員とはいえないが、それでも百万単位で数える人たちが、池田を指導者にもつことに誇りをもち、信仰によって幸せになった、または、きっとなると信じている現実。とくに青年層を中核とする男女活動家たちは、池田の指導にもとづき、福祉社会、世界の絶対平和という広遠な理想にむかって、いつの日か、必ず広宣流布を達成できると信じつつ、日夜実践活動にはげんでいるのは、まぎれもない事実なのである。
何よりも、まずこの現実を正視しない限り、池田を、そして創価学会を知ることはできない。