どんどん忘れてしまうから
コロナカを機に、日々変わる世の中や自身の状況や思いを記録しておくために始めた日記だったが、コロナカ(綾の蕎麦屋みたいな字面だな)すっかり関係なくなってないか?と疑問が。
久米宏のTBSラジオにゲスト出演していた高橋源一郎さんが、日本で最初にコロナについて触れた報道は1月12日付の朝日新聞だったと言及していた。私がコロナを自分にも無関係じゃないこととして認識したのはいつだったろう。ダイヤモンド・プリンセス号のことが報道されていたときも、まだ全然、対岸の火事だった。年末に母が倒れてからつきっきりで介護合宿に突入していたし、年明け早々受け入れてくれる施設を探したり父を説得したりで、自分の仕事そっちのけで取り掛かるべき急用案件にとにかく追われていた。(その頃の記憶も途切れ途切れだったりするから本当におそろしい)
いちばん最初にコロナの影響を感じたのは、トイレットペーパーが店頭から消えたときだったように思う。なんでトイレットペーパーが消えるのかは今でも不思議だし、なんて間接的な影響かよとツッコミたくなる。新燃岳が噴火したときもそうだった。もれなく乗り遅れるタイプの私。少し前に安売りで買っておいたそれを、全て実家に投下してきた後だったということは覚えている。
マスクが品薄になると知ったのは2月だったと思う。夜、ドラッグストアに行ったら、いつも50枚入り498円とかで買っていた使い捨てマスクが「入荷しました!一家族一箱!」とPOP付で998円くらいで品出しされているところだった。高っ!!と思い、家にまだストックがあったのでその時は買わなかった。後にここまで値上がりしたりマスク不足が長引いたりするなんて、その時は夢にも思わなかった。
2月の後半だっただろうか。たまーに行くご飯屋さんで、そこに卸している農家さんと居合わせたときに初めて「パンデミック」という単語をきいた。東京にも出荷しているその農家さんが、「東京からの注文のペースが早まっている。みんな備蓄してるんじゃないか」というようなことを言っていた。「そっかー、やっぱり震災経験してるから、備える意識がねー、なるほどー」とか言いながら、私はまだぜんぜん漠然。その頃には休校になっていたんだろうか?子どもがいないとその辺のアンテナが皆無である。(後に、日本のオンライン授業のインフラ整っていなさを知り、たまげる)
宮崎で最初の感染者が公表されたのが3月上旬。田舎はすぐにどこの誰げなとか、どこに入院しちょるげなとか、そういう情報は広まる。
信頼している情報筋から「早ければホワイトデー前の週末に東京もロックダウンするんじゃないか」と聞かされたのが3月上旬。1か月分ほどの食糧は備蓄した。とはいえ、最悪、米と水があればどうにかなるかと思いつつ、台風慣れしてる身からすれば、電気もガスも水道も止まらないなら楽勝じゃないかという気も。最悪、物流が止まっても、宮崎には産直がある。やっぱりまだピンと来ていないし、もしかしたら今でもピンと来ていないのかも。そう、まさか私、ピンと来ないまま、なんとなく第一波を終えた??そしてなんとなく全て忘れて行くんじゃないかという不安。
情報収集のために、リアル知り合いとも繋がっているツイッターのアカウントを再始動させた。ヨーロッパで都市封鎖が行われるらしい。「マクロン、おこ」とフランス在住の邦人が書いていた。「これは戦時中だ」とも仏大統領は述べたらしい。(3月17日)
「ニューヨークでは、みんな自分も保菌者だと思って行動するようにと言われている」と知ったのは、3月22日の佐久間裕美子さんとeriさんのインスタライブでだった。都知事から何もアナウンスされてなくない?と佐久間さんが指摘していらして、たしかにと思った。
最初に「東京のロックダウンそろそろくる」と聞かされて、何もそのような動きがなく、鈍い私でももしかしてこれ東京五輪のため...?と勘繰るくらいのことはできた。3月21日〜23日の三連休、上野公園で花見する人がたくさんいたり、話題になったK1の試合はいつだったか、あの三連休はけっこう肝だった気がする。東京オリンピックの延期が決まったのが25日。そこから東京の感染者数は激増する。
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