自分で選ぶということ
人生は選択の繰り返しなどとよく言う。
幸い選択の自由にも恵まれ、たいていのことは自分で好きなように決めてこれたように思う。その自分の選択について振り返ってみると、パターンが二つあることに気づいた。
積極的・意欲的・行動的に選択したのに
自分でもびっくりするほど積極的に意欲的に行動することがごくまれにある。何かにとりつかれたような感じになって、一心不乱、一所懸命、無心にがんばるのだけど、そういうときはほとんど駄目。まったく長続きしない。あるとき急に冷めてしまうのだ。
どうしてそんなふうになってしまうのかについては思い当たるふしがある。かねてから一芸に秀でた者に対する憧れがあった。何か一つのことに打ち込む姿はかっこいい。自分もそんなふうになりたいと常々思ってきた。だからそういう人を見ると、真似しないではいられないのだ。
そもそも夢中になるところがずれている。自分が夢中になれることを見つけたわけではない。夢中になれるものを持っている素敵な人を見つけただけである。そのことになかなか気づけない。だからはじめの熱量のわりに長続きしないのは当然。勘違いの自分に酔っている間しかがんばれないのである。残念。
流れに乗るということ
強い意志があったわけでもないのに、何となく導かれるように選んできた道が案外うまくいったりしてきた。そのときどきに聞いた話やたまたま出あった人の縁がつながったりして、自分で決めたとは言い難い。人生にはそんな感じの選択のほうが多いかもしれない。自分で決めたようでいて、何か大きな流れにたまたま乗っただけのような、そんな決断もまた、自分が選んできたことに違いない。
誰かのせいにしたいわけではないけれど、最終的に自分で決めたこと、結果的に自分が選んだことの中には、自分以外の要素も無数に含まれている。そういう不思議で複雑な背景があったほうがこの先も、うまく流れていくものなのかもしれない。