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どんなサードプレイスを創るのか

今日は池田の地域活動支援センターで働いていた時には関わった「ほほえみの街プロジェクト」(今は「イケダ大学」と名前が変わりました)を立ち上げた時の思いを話すとのことで行ってきました。

私はと言うと立ち上げた方が辞めた後に交代する形で働き始め、3年近く関わったと思いますが色々と思うことがあり途中で参加しないという選択をしました。
関わるなかで引き継いだ人と、立ち上げた人の温度差をとても違和感として感じていました。

「なんでこんな中途半端な形で辞めたんだろうと。」

今、思うとこの活動に関しては完成形はないもので、日々変化しながら継続するものだと思います。
しかし、引き継ぐ人がどれだけその思いを引き継いでいるのか、この活動の意味を理解しているのかは大切なことです。

支える人と支えられる人を支える側が区別している段階で、主従関係は成り立ってしまうし、相手の主体性を奪っていることも多い。

私は今まで支える立場の人が対等だと感じた人はいませんでした。

当事者であっても先に動き始めた人が上に立つ心理状態が機能するんだと思います。

よく思うのは始めて福祉業界で働き始めた現場の理事長が重度障害者の母親だった、この現場だけが当事者のことを一番考えていたなぁと思います。(今ではすっかり変わってしまったようです)
そして当事者の親としたの思い、関わる人間として必要な様々なことを教えてもらいました。
とはいえ、当事者優先なので当時私は時給にすると400円代で働いていたんですが(笑)

だけど、その後関わることになるいくつかの現場では、いかに支援者が楽をするか。得をするかが優先されて事務的だったり、関わる方をモノ化している現場ばかりでした。
この構造は主従関係だったり、トップダウンの構造からおこるのだと思います。

事業を継続するには資本が必要です。
しかし、人と関わる仕事、教育、医療、福祉等においては、事業を継続するために必要な利益を得る構図はほとんど相反することだと最近考えています。
福祉業界は特に酷く、教育や医学で関わる従事者が必要とされる学問を通過しなければいけないのに、福祉従事者は誰でもできます。資格がなくてもできます。高校卒業した人が50代の方へ偉そうな態度をとることなんて当たり前の世界です。
そういった所に私は違和感を感じます。
始めた人が事業を継続するなかで質の担保をする責任があるのだと思います。

諦めた時点でブラック企業へと簡単には向かってしまう。
当事者ができないから仕方ないと責任転嫁も簡単にできてしまう業界です。

何故そうなっているのか。
そこにはどれだけの教育を、受けているのかということもあります。(教育を受けているからその学びを使っているかどうかは別です)
モノではなく感情や状態が日々変化する人と関わる職業で働いている人の倫理観や道徳観が、対する人へ大なり小なり影響を与えてしまうからじゃないかと思うのです。

来月から私もサードプレイスを始めます。
対等であるかを常に考えながら、それでも私の必要とするユートピアを目指していきたいと思っています。



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