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村民運動会というものを全力でやっていた時代の話し

わたしが生まれ育ったのは、新潟の山間にある人口6000人ほどの村です。先日、カンボジアの田舎で地域住民を対象にした運動会をやった際、よみがえってきたのは、村民運動会の思い出。

村をあげた一大イベント

運動会といえば、学校でやるものという固定観念がありますが、わたしが子どものころは、夏になると村民運動会という村をあげたイベントがありました。当時の住所は「新潟県北蒲原郡黒川村〇〇」というものでしたが、この◯◯にあたる地区(いわゆる集落)の対抗戦で運動会が繰り広げられたのです。わたしは黒川村坂井(さかい)というところに住んでいたので、”坂井チーム”の一員として参加しました。もちろん、わたしの家族もチームの一員として出場。村をあげて、集落をあげて、家族をあげて、という感じのイベントでした。

坂井最強説

この坂井という集落は山手(やまて:オシャレな意味は皆無)と呼ばれたド田舎でしたが、黒川村の中でも最大の軒数を誇る地域で、家が90軒ほどあったと記憶しています。90軒で最大というのだから、タワーマンションひとつに楽々負けてしまうレベルではあるのですが、軒数と人材の豊富さで、村民運動会の常勝チームでした。どの競技もまんべんなく強い。子どものころ、黒川村に住んでいて「住所が坂井だ」といえば、「おおおお、運動会で強いあそこだね!」と言われたものです(大袈裟ではない)。今思うと、なんてかわいい村なんだろうと思ってしまいますが。

年齢別種目の悲劇

種目は多数ありまして、徒競走、リレー、二人三脚、玉入れ、大玉転がし、ざる引きリレー、大縄跳び、綱引きなんかがあったと記憶しています。どの種目も、「20代男性の部」とか「40代女性の部」とかに別れていて、坂井のように人口が多い集落は人材が選び放題なわけです。40代女性の部の場合、40歳と49歳では身体能力に差が出てしまいます。常勝坂井の作戦は、”大台に乗ったら即採用”。かくいうわたしの母も40歳になったその年の村民運動会で、ざる引きリレー40代女性の部に選ばれて参加したのですが、あのときの母の嘆きっぷりを、いまでも鮮明に覚えています。
「あれじゃあまるで、”わたし、40歳になりましたよー”って村中にお知らせしながら走るようなもんじゃないの!(ぷんぷん)」
見かけが年齢より若く見える母は決して年齢を口外しない人で、娘のわたしにすら「お母さんは一生25歳」と言い続けていた人ですから、結構憤っていたのでしょうね。

無敵の巨漢集団夏井!

常勝坂井がどうしても勝てない種目がひとつありました。それが、綱引き。他の競技では名をあげなくても綱引きだけは万年優勝のチームがありました。それが親友おこが住んでいてよく遊びに行った夏井集落。この集落にはなぜか、体の大きな人が多かったんです。同級生Wの家族もびっくりするくらいみんな大きいのですが、大きいだけでなく身体能力も高い。Wは小学校から野球でエースピッチャーをやっていた大きな少年でしたがその父もでかかったのを覚えています。W一家率いる夏井には、どのチームも綱引きで叶わなかったのです。先日のコッコン州でのコミュニティの運動会でも、イカゲームでも、綱引きを見ると思い出すのは、夏井! わたしの頭の中にインプットされているのは、綱引き=夏井。

コミュニティの結束と”おらが村”愛

村民運動会開催されたのは8月の最初の日曜日と記憶していますが、お盆をすぎるとクラゲが発生する日本海で海水浴をする我々にとっては8月の第一日曜日は最高の海水浴日和です。その貴重な1日を村民運動会に取られてしまっていたわけですが。子どもたちの記憶には、練習や本番や打ち上げで集落の人たちと過ごした時間が夏休みのいい思い出となっていました。各集落で応援席のテントが設けられ、飲水が用意されているのですが、坂井は水ではなくカルピスで、クラスメイトたちが坂井のテントまで「カルピスちょうだーい」と飲みにきていたことが坂井集落の子どもにとっては自慢でした。そんな些細なことも思い出に残っているのです。あのころの黒川村には、老若男女コミュニティの結束があって、子どもは集落全体で育てられていた感があったし、村の活動の中心になっている30代、40代の大人たちがすごくかっこよく輝いて見えました。そして、みんな自分の故郷を”おらが村”として愛していたなぁと思います。

平成の大合併で黒川村はなくなり、隣の中条町とくっついて胎内市になりました。もう村民運動会はありません。わたしが子どものころ輝いていた大人は、高齢者となって過疎化を憂いながら暮らしています。昭和の終わりから平成のはじめ、黒川村がとてもいい時代に村で過ごしたんだなぁと、村民運動会の思い出からノスタルジーを感じたのでした。

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