丸くて小さな背中を見て思う
仕事仲間……というほど仲いいわけではないですが、とにかく仕事場に、御年50後半~60前半の男性、小柳さん(仮名)という方がいます。
背はだいぶ小さい方で細っこい体格です。すでに腰が少々曲がり気味で、歩く姿も、どこかひょこひょことしたお年寄りの方特有の歩き方。仕事中、特に表情を変えることなく寡黙に作業に取り組み、若い子たちの挨拶にも無表情を返します。どうやら部下や相方はいないみたいで、一人で、黙々と机に向かう毎日のようです。
本当のところはどうかはわかりませんが、僕から見た小柳さんは、少なくとも職場では孤独な方です。
「あなた、自転車で通勤してるでしょ。声かけようか迷ったよ」
そんな小柳さんが、ある日、入社して間もない僕にそう話しかけてきました。
僕は自転車で通勤してます。小柳さんも自転車通勤で、その日、えっちらおっちらと自転車をこいで出勤する僕を見つけたらしい。『あいつは確か新人の……』と気づいた小柳さんは、僕に声をかけようかと思ったらしいですが、迷っている間に僕は急にスピードを上げて、ばひゅーんと駆けていったそうな。
「なんだ。声かけてくれればよかったのに~」
「んじゃ、今度声かけるね~」
僕がこう返すと小柳さんは、普段は絶対に見せない、人懐っこい笑みを浮かべていました。
以降、朝の通勤途中や更衣室、廊下ですれ違いざまなどに、二言三言おしゃべりするようになりました。
「自転車ならね、こっちの道を通ったほうが早いよ」
そういいながら小柳さんが熱心に教えてくれた裏道は、確かに僕が今まで使っていた道と比べて、格段に早い近道でした。そのおかげで、通勤時間がだいぶ短くなりました。
そのことに関してお礼を言うと、
「ね! 早いでしょ!! あなたなら私よりさらに2分ほど早いよ!!」
と、仕事中には絶対に見せない無邪気でうれしそうな笑顔を見せていました。
さて、そんなある日……というか今日ですわ。帰り道で小柳さんを見かけました。向かい風の強風の中、僕が『疲れたのぅ……』とえっちらおっちらと自転車を漕いでいると、前の方に、宵闇にまぎれて小柳さんの後ろ姿が見えました。
「おっ。小柳さんも今帰りか~」
なんて思い、声をかけようとして……迷った挙げ句、やめました。
声をかけようとして、なぜやめたのか。
それは、小柳さんの丸くて小さな背中から、何か特別な感情のようなものを感じたからです。
どんな感情かと言われると、正直、自分でもよくわかりません。
ただ、本当は誰よりも無邪気な笑顔を浮かべることが出来る彼が、無表情になってでも必死に守っている家族……そんな家族の元へと帰る喜び……そんなもののような気がします。
なぜなら、向かい風の強風の中、仕事帰りで疲れているはずの小柳さんの丸くて小さな背中は、必死だけど、どこか弾んでいる用に見えたから。
ホントのところはどうなのかは知りませんが、少なくとも僕はそう感じました。
あんなに感情が乗った背中を見たのは、生まれてはじめてでした。
なんだか邪魔をしてはいけないような気がして、声をかけることができなくなりました。
しばらく進んだ先の十字路で、小柳さんはまっすぐ進み、僕は右に曲がりました。僕らの道は分かれました。
僕は、宵闇に紛れた小柳さんの背中が見えなくなるまで、立ち止まってずっと眺めていました。
普段は寡黙に仕事をしている小柳さんの、必死だけど妙に嬉しそうな、あの丸くて小さな背中を。