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行きたくないというだけなら、むしろどこにも行きたくない。

 でも、在宅勤務はできない――ということに気がついた。

 どちらかというと仕事好きだ。
 何のために働いているのかと上司の上司に問われ、「お金のため?」と提示された選択肢に否定の方向に首を振り、「タ、タノシイカラ。イロイロ、シルノ、タノシイ」と、なぜかカタコトで答えてしまったくらいには好きだ。いや、自分自身驚いたのだ、あの時は。「仕事がたのしい」という結論に達してしまった自分に。

 もともと横着なタチだ。一所から動かず、ひたすら無意味に文字を目で追いかけることができるならば、それに越したことはない。そのうえで、私の感情に補完が必要な時は「表現」する。埋まらない私の感情について、私の生み出した代弁者に語らせ、それを私は文字化し、綴るのだ。
 何年か前まで、私はずっとそんな感じだった。そして、今も「おそらく」根本的には変わっていない。
 動きたくない。

 しかし、新型コロナウイルス感染症拡大を受けて職場が「原則在宅勤務」のスタンスを取った時、私の反射的な気持ちは「冗談キツい」だった。
 朝起きて、身支度おざなりで、そのまま仕事に突入できるのに、一体なにが「冗談キツい」のか。
 わからないまま、私は出勤を続けた。
 「原則在宅勤務」となった以上、おかげさまで出勤するのが私一人となったのも“よかった”。加えて、自家用車で通勤する私は、道中ヒトと接することもない。
 私は、朝起きて、身支度を整え、出勤し続けた。

 もし、職場がシェアオフィスのなかになければ、私はきっと何もわからないままで、この先に続く話もなかったに違いない。

 とあるシェアオフィスの独立した空間に、私の職場はある。ただ、シェアオフィス自体の出入口は共有ということで、上司から「出勤しないように」と再三言われ、渋々私は在宅勤務にチャレンジすることになった。
 朝起きて、身支度せず、そのまま仕事に突入した。
 たのしくなかった。本気でたのしくなかった。捗らないことこのうえなし。
 たのしくないのはいい。でも、捗らないのは困る。
 原因を考え、「身支度という儀式をすれば“多少はマシ”になるのではないか」と思い至る。
 とはいえ、“多少はマシ”という時点で、頭の片隅には予感があったのだろう。
 そして、身支度をして仕事を始めてみたが、やっぱり捗らなかった。もちろん、たのしくもなかった。

 結局、何だったのか。

 あくまで「おそらく」ではあるが、『仕事をする私』というのは、私の感情に補完が必要な時に生み出される代弁者に近いのではないか。
 私は「動きたくない」。だが、動かないものは、私の感情を補完することはできない。
 仕事をたのしいと思う私は、動かない私には生じないのだ。

 仕事がたのしい私を生み出すには、その場所から動かなければならない。身支度だけでなく、出勤するという行為が、きっと必要なのだろう。
 そうだとしたら因果なものだ。

 なお、一番因果なのは、たのしくないと捗らないという部分のような気もするけれども、それについてはごめんなさいするしかない。

 ごめんなさい。


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