偉大なる『不良少年』への憧憬。(坂口安吾『不良少年とキリスト』感想)
坂口安吾は「太宰治氏の小説を待ちかまえていて読んだ。彼は太宰氏の小説を、何という文章のウマイ人だろうといって愛読した」(坂口三千代『クラクラ日記』より)のだそうだ。
安吾と太宰は「無頼派作家」の代表格のようにいわれながら現在も多くの人に読まれているが、安吾は同業者としても、一読者としても、太宰の人となりや作品にたいへんな愛着をもっていたのだろうと思う。
太宰治は1948年、玉川上水で情死した。
『不良少年とキリスト』は、坂口安吾が太宰の死後に書いた追悼文のひとつだ。
太宰の死を「誰より早く」知った安吾は、ジャーナリストの襲撃を逃れようと「太宰のことは当分語りたくないから、と来訪の記者諸氏に」置手紙をして行方をくらますものの、その手紙の日付が新聞記事よりも早かったために、かえって新聞記者から怪しまれ「太宰の自殺が狂言で、私が二人をかくまっている」と思われる羽目になったりする(不謹慎なようだが、安吾の言動にはときおり、こうした微妙なツメの甘さが感じられることがある)。が、安吾はいう。「新聞記者のカンチガイが本当であったら、大いに、よかった。」「本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑(すぐ)れたものになったろうと私は思っている。」と。
『不良少年とキリスト』において、安吾はいかにも安吾らしく、太宰治という人間を、ずばずばと明快に分析している。
「太宰は、M・C、マイ・コメジアン、を自称しながら、どうしても、コメジアンになりきることが、できなかった。」
「フツカヨイの、もしくは、フツカヨイ的の、自責や追悔の苦しさ、切なさを、文学の問題にしてもいけないし、人生の問題にしてもいけない。」
なにかにとらわれ、執着する。それが徐々になぜか、とらわれている、執着している自分に自分自身が夢中になってしまう。そして夢中になるにつれテンションがどんどん上がってどんどんおかしくなる。その勢いで、場合によっては周囲の人間も巻き込んでおおいに興奮、狂乱、暴走する。こういうことはたぶん、よくある。興奮狂乱暴走の最中はたいへんな充実感を得られるのだが、やがて我に返れば、猛烈な羞恥と自己嫌悪にさいなまれる地獄が待っている。やらかした。あれもこれも猛烈に恥ずかしい。最悪だ。逃げたい。まったく、こういうことは、よくある。たぶん。「フツカヨイ」とは、こんなありさまを指した言葉なのだろうなあと思う。安吾は、太宰の言動や作品から、彼の「フツカヨイ」的な心の動きを感じることしばしばだったのかもしれない。
「フツカヨイ」がさめたあとというのは、じつに、つらいものだ。私はもちろん太宰のような文豪ではないが、たとえば「むかし書いた『片想い日記』およびラブレターの下書きが部屋で見つかったので読み返したらやばすぎた」などの出来事を思い出せば、この「フツカヨイ」を、いくらか実感をもって理解できるような気がしないでもないのである。
しかし「フツカヨイ」に陥るのが、人間にはたぶんよくあることで、自然なことであったとしても、それに振り回されるばかりではいけなかったし、まして振り回されつづけ、敗北してはいけなかったのだ。
太宰治はずばぬけて繊細で、サービス精神旺盛で、芸達者で、だからこそ「マイ・コメジアン」を名乗るにふさわしい作家になれたが、一方で「フツカヨイ」的な羞恥や自己嫌悪について、割り切ったり棄て去ったりすることができなかった。とことん開き直り、舞台の上で見得を切りつづけていられるほどに強靭な精神を獲得することはできなかった。
それはなぜか。安吾が『不良少年とキリスト』に書いたように「虚弱」だったからか。心が「フツカヨイ的に衰弱」していたからか。「安易であった」からか。安吾はこうも書いている。「M・Cになるには、フツカヨイを殺してかゝる努力がいるが、フツカヨイの嘆きに溺れてしまうには、努力が少くてすむのだ。然し、なぜ、安易であったか、やっぱり、虚弱に帰するべきであるかも知れぬ。」
まったく、安吾の指摘の、細かさ、的確さには、いちいち恐れ入る。容赦がない。残酷。
だが、安吾による太宰評は、冷徹ではあるが、冷酷ではない。高みから見下ろしてあわれむような、傲慢で嫌らしいところもない。
安吾の批評の根底には、太宰への友情と、いたわりと、共感がある。蔑んでいるから、容赦ないことを書けるのではない。自分との共通点をいくつも見いだし、強い親愛の情を抱いているからこそ、対象をしっかりととらえ、的確なことを書けるのだ。当然である。
太宰は、傷つきやすく、もろく、感情の起伏の激しい「不良少年」だった。純粋で、人より多く屈託を抱えすぎた。権威にたてつき、斜に構えてみせるのは、不良であるがゆえに素直になれず、甘えられず、自分よりも大きなものに対し、愛されたいとか愛してほしいとか、守られたいとか、そうした意思をうまく、わかりやすく示すことができないせいだった。ほんとうはどこかで、充たされない思いを解消しておきたかったに違いない。大きく強いものに、包まれるように愛され、守られて、安心しきってみたかったこともあるに違いない。ほとんど根拠のない、ただの空想みたいな話ではあるが、私にはそんなふうに思われてならないのだ。
安吾は、太宰とはまた異なる性質の持ち主ではあるが、繊細でサービス精神旺盛なところ、「不良少年」であるところは、同じだった。「太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。」「生れが、どうだ、と、つまらんことばかり、云ってやがる。」と書きながら、こうした境遇、こうした心情については、自分でもよく理解していたはずなのだ。
ただ、安吾はたぶん、太宰よりもすこし強靭だった。だから、人生をまっとうできた。
そんな安吾は、太宰の死を惜しみながらも、いい切る。
「人間は生きることが、全部である。死ねば、なくなる。」
「生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。」
「いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。」
生きることだけが、大事である。そのとおりだと思う。人間、ただ、生きてさえいればいいとか、死なずにすめばいいとかいうものではないが、生きていなければなにもできはしない。死んでしまえば、なにをどうすることもできないのだ。
礼儀正しい常識人であった太宰をふりかえり「マットウの人間」といった安吾だが、私はそういう彼もまた、太宰に負けず劣らず「マットウ」であると思う。私の空想のなかには、自らの作品をとおして「生きろ!生きろ!」と、死んだ太宰に、そして何人も、何十人も、何百万人もいるであろう「不良少年」の読者たちに叫びつづける安吾の姿がある。そこに並び立つことは無理でも、せめて心意気だけは見習いたい。
「不良少年」とは、徒党を組んで悪行の限りを尽くし、まじめな人々をおびやかすような愚か者のことではない。
人間を愛し、人生を愛し、旧弊の打倒に挑み、権威と格闘する。そういう者こそが「不良少年」なのではないか。汚名ではなく、称号ではないか。『不良少年とキリスト』を読むと、そんなことも考えてしまう。
権威的、高踏的なものから弾かれる。あるいは接しても馴染めない。そんな人間のための芸術も、世の中には必要だと私は思う。安吾や太宰の残した数々の作品は、強烈で明快で、そのぶん見方によっては単純で俗っぽく、一段低い扱いを受けるかもしれない。しかし彼らの言葉は、いまもなお、そしてこれから先も「不良少年」たちを励ましつづけ、心の支えとなりつづけるはずである。
最後に、そういえば安吾が「その死に近きころの作品に於ては」もっともすぐれていると評した太宰の『斜陽』も、「不良少年」たちの物語であったことを思い出した。
「不良でない人間があるだろうか、とあのノートブックに書かれていたけれども、そう言われてみると、私だって不良、叔父さまも不良、お母さまだって、不良みたいに思われて来る。不良とは、優しさの事ではないかしら。」(太宰治『斜陽』より)