「正解がない」世界に、希望を見出す「強さ」(小栗左多里『カナヤコ 女鍛治職人物語』感想)
「生まれて このかた25年 いいことなんて一つもなかった」
小栗左多里『カナヤコ 女鍛治職人物語』(メディアファクトリー)は、ときどき読み返す漫画のひとつだ。
主人公は25歳のフリーター、八木礼子。
子供のころ父親が失踪し、母親も高校時代に他界。そんな礼子は、ひどいネガティヴ気質と妄想癖(あこがれの人気アイドルと自分とが恋愛関係になるという設定で、ノートに小説を書きまくったり、ひとりでなにかのインタビューに答えたりしている)のため、同級生には避けられ友達はおらず、恋人もいない。カネもない。高校中退後のフリーター生活でも仕事がうまくいかない。勤め先のファミレスの常連客にほのかな想いを寄せるも失恋。そうしたなか、父親が突然帰ってくるのだが、帰ってくるなりカネを貸せと土下座される始末である。
まったく、そもそもが過酷なうえに、踏んだり蹴ったりの毎日だ。コメディ漫画なので、軽快でユーモアあふれる描き方ではあるのだが、笑いのフィルターを取り外して考えれば、なんでここまでと読んでるこちらも落ち込むくらいの境遇である。
「恋もダメ、仕事もダメ、お金もナシ、変な癖だけアリ…」
涙を流しながら街を歩いていた礼子は、ビルから転落した小学生の大樹とぶつかり、入院する。
礼子も大樹も命は助かるが、大樹はいじめのために不登校を続けていた。
「今日からいいことがある日に向かって 頑張ることにする」
「それで大樹くんにいいこと分けてあげられるようにするから」
「だから死なないで」
「大樹くんは頑張らなくていいよ ただ死なないで生きてて」
この漫画では、一見弱く頼りなく思える礼子が、そんな侮りに似た先入観を覆してくれるかのような「強さ」を見せる場面がいくつも出てくる。大樹を励まし、友達になるこの場面は、彼女の最初の「強さ」だ。
そしてこれが、彼女が新たな道に進む大きなきっかけとなる。大樹が仕事場に出入りし、親しくしているベテラン鍛治職人・伊吹弥三郎に弟子入りすることにした礼子は、弥三郎と兄弟子の尭に鍛えられながら、鍛治という未知の仕事にすべてを賭けて打ち込む決意を固める。
子供のころは、何かを作るのが好きだったことを思い出したこと。
「モノを作る仕事なら、妄想も悪いとは思わない」という尭の言葉。
妄想を、集中力と想像力に変え、生まれて初めて打った小刀を、未熟ながら認められたこと。
ずっと、周囲から否定されつづけ、自分でも「私なんかダメ」と思いつづけてきた礼子に、意欲と情熱が少しずつ芽生えてゆく。
鍛治には「正解がない」。
職人はみな、それぞれのやり方で「切れる刃物」を仕上げる。それが仕事なのだ。
礼子はそこに不安を感じることはなかった。それどころか、
「正解がない…」
「なんて素敵な世界」
と感動する。
私がこの漫画を読んでもっとも驚き、感服したのは、じつはこの点にある。
ほんとうに弱く、自分に自信がなく、気力もなければ、仕事にせよなんにせよ、マニュアルや強く声が大きい誰かの命令や指示に依存して生きることを選んだりしてもおかしくないはずだ。
だが礼子は、自分の考えで、自分のやり方で、自分の手で、誰かの役に立つ刃物をつくるため鉄を打つ鍛治職人となることを決めた。
「正解がない」仕事を、一生の仕事と定める。
これは先に述べた礼子の「強さ」のなかでも最大級の「強さ」といっていいだろう。そしてこの「強さ」は、そのままこの漫画の「軸」でもあると私は見る。
八木礼子は、充分以上に強い心を持つ人間だった。
大樹や、弥三郎や、尭や、それ以外にも彼女に関わったあらゆる人間が、その強さを目覚めさせる助けになったともいえるが、そしてそれはたしかにそうなのだが、しかし、もともとありもしないものが開花し、発揮されることなど不可能である。
礼子は強かった。迷い、涙を流しても、人に助けられ、支えられることで、何度でも立ち直る。そんな彼女はやがて、大樹のために大樹の母親を説得しようとしたり、尭と尭の父親との和解を成功させたり、良き相談相手であるボーイズバーの店員・ケイジとの恋愛で苦い失敗をしたり、それまでからは考えられなかった経験をすることで、元来の「強さ」に加え、一気に人間としての幅も広がってゆく。
最後、礼子をひどいやり方でバカにしてきたかつてのいじめっ子たちに、ひとりの誇りある鍛治職人として、毅然とした態度を示す礼子がじつに格好いい。
希望を感じさせる爽やかなラストと、礼子の前向きな変化に、この作中世界でいずれすぐれた女鍛治職人が活躍の場をおおいに広げることになるだろうという予感を抱き、読んでいるこちらも「自分なりに、生きていこう」とも思いながら、今回もこの厚い漫画本を閉じた。
冗長な感想になってしまったが、小栗左多里『カナヤコ 女鍛治職人物語』、良作である。これだけは、自信を持っていえる。