昔から広告や看板が好きだったらしい
まだ物心がつく前、私が赤ちゃんの頃にぎゃんぎゃん泣いていたとしても、外に行って看板や広告を見せると機嫌が直ったらしい。当時の松本の商店街はお店ごとにディスプレイや意匠を凝らしていて、確かに見ていて飽きなかったような記憶はある。
「昔から広告や看板が好きだった」という話は大きくなってからも親から何度か聞いて、そのたびに「だろうな」と納得する自分がいた。小学生の頃から地方CMや面白CM、懐かCMの番組があれば必ず録画してチェックしたし、新聞は記事よりも先に広告を眺めていた。
無理に理論づけようとするなら、広告のパッと見の瞬間に「訴求したいポイント」「コンセプト」「モチーフとの意味関係」「イケてるデザイン」が凝縮されているので、それらをストレートに読み取れる広告(いわゆる巧い広告)との出合いを楽しんでいたのだと思う。
最近気づいたのは、表音文字と表意文字との相性も関係ありそうなこと。昔から「abc」が連なるような表音文字は全然頭に入らないけれど、漢字のように1字に意味が込められていて、パッと見ただけで意味が分かる表意文字なら読むのが早い。
自分にとって広告はある種の複雑な「表意文字」であって、広告1枚に込められているものをパッと受け取って、瞬間にいろんな味の意味が入ってくるのが気持ちいいのだと分かってきた。
ああ、書いていて思ったけれど、料理にも似ているのかもしれない。一口食べただけでいろんな味わいがあるほうが美味しいし、また食べたくなる。
だから雑な意味づけをされていたり、モチーフと表現がストレートに連結しすぎていたりする広告を見るとつまらないと思ってしまう。もうちょっと頭を使う複雑さがあるものを、自力で理解して「なるほどな」と思いたい。
今、自分の研究のために戦前の広告に触れる機会が増えている。当時の流行や当時「カッコいい」とされている概念がギュッと込められて、なおかつ面白いデザインにチャレンジしている広告も多い。今とは違う物差しで「こう表現するか」と意表を突いてくる。予想外の「なるほどな」がたくさんあるので見ていると時間を忘れてしまう。
戦前せっかく面白かった広告群は、戦時中に魂を抜かれて本当に死に体みたいな状態になる。その間はほんの数年。どうしてそんなことになってしまったのか、いつからその萌芽があったのか、調べてみようと思っていろいろ資料をあたっている。
その作業は全然苦ではないので、やっぱり三つ子の魂百まで、昔「広告を見せると機嫌が直った」のが続いているのだと実感する。