語り直すこと/意味付けることーー佐藤厚志『荒地の家族』
理不尽に襲いかかる「災厄」。なんの前触れもなく、突如としてやってくるそれとどのように向き合うことができるだろうか。
「災厄」として語ること
佐藤厚志『荒地の家族』が今年の初め、第168回芥川賞を受賞した。同回、二人称の語りを採用した実験的な作品で芥川賞に選ばれた井戸川射子『この世の喜びよ』に対して、小説のセオリーを知り尽くした玄人的な作品だったといえる。
内容は概ね以下のとおり。
舞台は「災厄」から10年が経った宮城県亘理町。東日本大震災 ≒「災厄」とどのようにして向き合うのかをテーマとしている。
選評は様々だ。「逆」浦島太郎(山田詠美)、スタイル的な新しさに欠ける(平野啓一郎)と言われたり、終盤のエピソードが美化しすぎ(島田雅彦)ではないかと問われたり。様々ではあるが概して好評である。多くの選評に共通しているのは本作の徹底したリアリズムについて指摘していることだろう。本作は、なんの脈絡もなく、突如として襲いかかる「災厄」にどのように向かい合うのかを、誠実に描き切った。
小川洋子は次のように述べる。
その通りだな、と思った。もちろん「一つの道筋」であってこれが全てではない。ただこの場では、本作が示した問題を東日本大震災に限ることはしないで、もう少し抽象的に考えてみたい。
ところで、ここまで「災厄」という作中の言葉を用いてきたのには理由がある。作品で「災厄」と称される事柄の多くが東日本大震災を指していることは同時代を生きてきた読者にとっては明らかだろう。しかし、それを明言しないでいるのは、主人公を取り巻く様々な変化ーーそれは多くの場合不幸に連なるものであるーーに「災厄」を見出しているからに他ならない。
私が「災厄」を抽象的に扱ってみたいとした根拠とは、このようなものである。本題に入る前に「災厄」について簡単にまとめておこう。ここまで述べてきたように、私は「災厄」を震災と一対一の関係で考えてはいない。「災厄」とは、主人公を取り巻く変化(勤務先でのトラブル、初めのパートナーの死、離婚、旧友、等々。)を指す。それは多くの場合、主人公が関与し得ないもの、あるいは彼が関知できないものであり、どうにもならないという点で「災厄」なのである。その中でも震災が際立って大きな意味を持つことは言うまでもないが、「災厄」と表現される以上、その他の変化を含み持つものであることも否定できない。
したがって語り手は、あるいは主人公はそうした突如やってくるものとしか言いようのないものを「災厄」という言葉によって表現しているのである。常に戯れ、決定されないものとしてあるその言葉は、ときに読者に一般化されたものとして提供され、ときに主体を不安に陥れるものとなるだろう。
反復•記憶•意味
『荒地の家族』に特徴的なのは、何を差し置いてもまず、同じ事象、似た事象を繰り返し語るところにある。それは記憶であったり、デジャヴであったり、人の行動パターンであったりする。元パートナーが家中の食器を割って出て行った日のこと、元パートナーを繰り返し訪ねる主人公、前のパートナーが死んだ日のこと、海岸の焚き火、ゴミを堆く積み上げた黒い山、以前の街並み、子どもの頃の記憶、海、堤防ーーそして「災厄」。枚挙にいとまがないが、ざっとこんなものだろう。
しかし「反復」という技法がそうであるように、その語り方は全く同じではない。「反復」には微細であれ差異が生じており、そこに「反復」する必要性が生じる。海岸の焚き火から顔を背けてしまった主人公は、物語終盤焚き火を直視し、その先に今の亘理町を見る。柄谷行人は「風景」が主観の成立とともに現象するものであり、ありのままの景色を見ているわけではないことを論じた。であるならば、主人公が焚き火を通してみるそれも、彼の内面を映し出す鏡だと考えるべきだろう。
語り手は主人公への内的焦点化や「風景」の描写を反復することで、「災厄」を取り巻く事象に再ー意味付けを行う。小説の回想におけるそれと同様に、である。焚き火において示される反復と「風景」の変化は、主人公が「災厄」をどのように捉えるかの変化と軌を一にする。差異はあれど、他の反復描写についても同様のことがいえる。主人公と「災厄」との距離を見ることが重要なのは勿論、ここで見ておきたいのは、語り手によって創造される「災厄」と向き合うその在り方である。
宙吊りの「災厄」
では『荒地の家族』は何を描いたのだろうか。先にも述べたように、主人公は記憶を何度も反芻し、その行動は語りによってデジャヴのように仕立てられる。彼はその反復によって、「災厄」に向き合うのである。忘れてしまうのでも、乗り越えるのでもなく、反復する。これはときに人を負の連鎖に巻き込む危険性をもはらんでいるだろう。しかし、彼には反復することしかできないし、それは「災厄」とともに生きていくことでもあった。
理不尽な「災厄」に襲われたとき、人は何故私が、何故こんなことに、と理由を求める。答えを与えてくれるのは宗教であったりこじつけであったり、あるいは物語であったりする。主人公もまた、友人の業を背負うという形で一旦の脱出をみる。円環する思考から一時抜け出た彼は、いつの間にか大きくなった息子と出会い、自身の老いに気付くことになる。
私の知人は序盤の川釣りにおける上流と下流をめぐる中年と若者の争いの描写が、海に縛られた、即ち河口に生きる老いた主人公の位置を明らかにしていると述べていた。最下流から川のいざこざを眺めている、老いた主人公。冒頭では争いを眺め、語ることにとどまっていた彼が、自身の老いに気づくことは円環する思考から逃れ出たことの証左となるだろう。
だが、これを安易にハッピーエンドと解することはできない。物語結末で彼が帰るのは〈日常〉であり、それは "暖かい家庭" などではない。延々と繰り返される〈日常〉に回帰することで物語が中断されることは、ハッピーエンドではなく、これからも反復を通して「災厄」と向き合うことを意味する。先の文章を使って換言すれば、「災厄」とともに生きていくことを指すのだ。
物語を生きることを悪くいうつもりはない。反復し「災厄」とともに生きることも、因果関係を見出して物語を生きることも、「一つの道筋」であり、「災厄」への向き合い方は多種多様だろう。いや、そうであるべきだ。しかし、答えや意味を求めてしまうことは、はなから理由などない「災厄」を前にしたとき、自身を追い詰めてしまうことになる。國分功一郎は意志と責任について、意志(自由意志を指す)とは、責任が見出される場において遡及的に構築されるものであることを指摘した。「災厄」に理由を見出せるとすれば、このような操作においてである。
「災厄」を乗り越えた、というサクセスストーリーになりえなくとも、答えも意味も宙吊りのままに生きることを、「一つの道筋」として示した点において『荒地の家族』は価値づけられる。主人公を高みから見ることのできる読者は、彼の選んだ道ではなく、語り手が創り上げた道を見る必要があるのだろう。
なんだか曖昧な文章になってしまった。物語の多くの要素を切り捨ててしまったような気もする。だが、取り上げるべきこの他の問題をここで述べることはできない。禁欲的な文章を書くことに努めよう。(かなり欲張った気もするが。)蛇に足を描くようなことにしないためにもここで終わりにする。
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