「怪物」と化する解釈 ーー 是枝裕和『怪物』

 語ることができないことについては、沈黙するしかない。

『論理哲学論考』(丘沢静也訳、光文社、2014/1)

 ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』をこのように締めくくった。

 言葉の限界が世界の限界を規定する。今となってはごく当たり前のように言われる命題であるが、私たちはこれを「はい、そうですか。」と受け入れるわけにはいかない。多様性が謳われる裏で、徹底した個人主義が進むこの世界を生きる私たちは、多様であることを理解しているようでいてその実なにも理解していないのではないか。


 泥の中を1人で歩く少年がふと振り返る。是枝裕和『怪物』は、そんな謎めいたカットで始まる。物語の詳細は省くが、ひとまず感想を書いてみよう。
 4つの視点から描き出される物語において、3人の大人たちは様々な物語を創りあげる。それは混沌とした子どもたちの世界を、それぞれの規範に従って解釈することで練り上げられたものであった。自身の物語を生きる彼らを捉えるカメラは、「怪物」の誕生譚を映し出す。
 それと知らずに「怪物」と化する大人たちに囚われて、子どもたちは自己を「怪物」(=他者/異質な物)であると規定してしまう。「怪物」であることに "気づいてしまった" 2人は、閉ざされていた線路の先へ、境界を超え、大人たちの手の届かないところに達する。彼らはトンネルの向こう側に創られた2人だけの世界を享楽することでしか生きることを許されなかった。ここで2人だけの世界とは、電車を指す。時間に沿って移動する電車とは異なり、捨てられ、動かなくなったそれは、時間という現実の尺度から逃れたものとして表象される。まさに2人の世界であるが、「生まれ変わり」とか「出航」として表現される死に向かうことでその完成を見る。翻って死という形でしか到達できない世界でもある。大人ー子どもの境界であるトンネル。そしてさらにその先に設けられた他者化された領域へと踏み込むのだ。
 自分の物語ーー解釈と呼んでもいいだろうーーを脱し、真の他者に接近することの難しさ、より端的に言えばその不可能性を『怪物』は強烈に描き出す。その意味で、それぞれにある正しさが、誰かを「怪物」たらしめてしまう地点が打ち出されているといえよう。

 TVのドッキリをみたみなとは言う。

「中の人には分からない。」

 「ドッキリ」という物語を見る大人。登場するタレントを見る子ども。それぞれが見たいものを見、聞きたいことを聞き、そして物語を作る。物語の中に生きる私たちは「中の人には分からない」状態に陥っているのかもしれない。やはりヴィトゲンシュタインの言うように、「沈黙するしかない」のだろうか。そうではない。と私は言いたい。

 先に物語を生きることで「怪物」化すると書いたが、「怪物だーれだ」という挑発とも取れるセリフを加味するなら「怪物」とは固定された人物ではなく、解釈という営みそのものを指すのかもしれない。
 「依里はディスレクシアではないか。」「2人は同性愛関係にあった。」といった感想が見られる。作品内で明文化されていない事象を読み取ることはときに重要であるが、本作においては事情が異なるだろう。解釈が「怪物」として描き出される物語において、曖昧なままに残されている要素をそのように解釈してしまうのであれば、読者は解釈の暴力性に無頓着ではないか。
 とすれば、一旦物語を構造的に見てみる必要がある。同じ事件を四つの視点で繰り返し語ることで、読者は自身の怪物的解釈を糺すよう促される。映画体験においてこの過程を辿らせること。それ自体が本作の目的であると言ってよい。そう考えるのであれば偏りすぎてコミカルにさえ見える学校の描写も、一舞台装置として扱うことができるだろう。(それにしてもあり得ないことばかりであるが。)

 是枝裕和「怪物」は問いである。答えを出しはしない。解釈の暴力性をまざまざと体験させられ、その一端を担ってもいた私たち。ここで考えるべきは他者への到達不可能性ではなく、不可能であることを前提として、解釈の暴力性を前提として、自身の物語をしか生きることができないことを前提として、それでも歩み寄るための方途だろう。
 何かに気がついた大人たちは、子どもたちの領域へ辿り着く。これまでその存在にすら気付けなかった世界に接近しようとする彼らは、土砂に覆われる窓を何度も何度も拭う。私はこのカットに『怪物』的枠組みから逃れるための回路を見たい。拭っても拭っても泥に覆われ、その向こうの景色を知ることを阻む窓は、他者に近づくことの困難さを映し出すとともに、他者に近づくあり方を提示してもいる。近づくと同時に遠ざかり、それでもなお諦めることなく近づこうとする。ーー泥の中を進む少年に、同じ泥に浸かりながら、ゆっくりとでも歩み寄ること。曖昧さをそのままに、接近する胆力が試されているのかもしれない。他者への接近は常に自己の変革という「不快な」体験を伴うものである。


 長くなった。無論『怪物』の提出した問題はこれだけではない。またクィアの扱われ方に顕著なように、『怪物』という映画自体が、批判されるべき問題を多分に持っていることも言うまでもない。それも含めて問いであると括ってしまうのはいささか乱暴だろうか。完璧な作品はないし、完璧であることは「語り得ぬ」ことである、とでも言っておこう。
 坂本龍一の音楽が素晴らしかったことも述べておかねばならない。


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