来るべき変化のためにーー三宅唱『ケイコ 目を澄ませて』

 忙しくて映画館に観に行くことが叶わなかった映画をやっと観ることができた。Amazon prime様様である。あらすじは以下のとおり。

嘘がつけず愛想笑いが苦手なケイコは、生まれつきの聴覚障害で、両耳とも聞こえない。再開発が進む下町の一角にある小さなボクシングジムで日々鍛錬を重ねる彼女は、プロボクサーとしてリングに立ち続ける。母からは「いつまで続けるつもりなの?」と心配され、言葉にできない思いが心の中に溜まっていく。「一度、お休みしたいです」と書きとめた会長宛ての手紙を出せずにいたある日、ジムが閉鎖されることを知り、ケイコの心が動きだすーー。

映画『ケイコ 目を澄ませて』公式サイト
(https://happinet-phantom.com/keiko-movie/)

〈普通〉の物語

 物語は単調だ。特別大きな転換があるわけではなく、特異な人物が出てくるわけでもない。ケイコが聴覚障害者であることも、物語を構成する一要素であって主題たりえない。少なくとも障害者が苦難に立ち向かう、といったタイプの映画ではない。障害や障害者はなにも "私たち" とは違う世界に存在するのではなく、ごくごく当たり前に存在するのであり、その意味で "私たち" は発想の転換を迫られるだろう。もし本作に「障害者が苦難に立ち向かう」物語を求めていたならば、それは差別と表裏一体であることも考えねばならない。このことは中原ナナ演じる、小河聖司の友人にある種の特別さを持たせていないことにも通じる。
 "健常者"、"マジョリティ"といった人間が物語に登場する意義が問われないのと同様に"障害者"、"マイノリティ"が物語に登場することは意義を問われなくても良いはずである。つまり、意義などなくとも"私たち"も"彼ら"も存在するのであり、存在してよいのである。もう一歩踏み込むなら、多様性とは、特性を有しているとされる人々に"認める"(この言葉に無自覚な人がどれほど多いことか!ここには、認める権利を持つ者と認めてもらわねばならない者という上下構造が内在しているのである。)ものではなく、誰しもが誰とも同じではなく、すべてが差異であり、したがって多様なのだ。この点で『ケイコ 目を澄ませて』は〈日常〉ーー障害をめぐる物語に、特異性を求める者の価値観を異化する〈日常〉ーーを誠実に描いた。 

再開発されゆく街

 文章を書くにあたって、初めてあらすじを読んだが、ケイコやジム、会長の変化とともに、下町の再開発が並走していることを知った。『日本国語大辞典』によると、再開発とは「すでにあるものの上に新しい計画を加えて、それをさらに開発すること。」を指す。「すでにあるもの」とは本作ではジムであったり、ケイコと会長の関係であったり、登場人物たちのこれまでの人生であったりするだろう。
 これを単に新旧の交代として捉えることも可能だが、『ケイコ 目を澄ませて』で描かれるのは交代するまさにその瞬間、つまり崩れつつある一方で構築されつつもあるそのあわいである。したがってこの下町は、様々な可能性に開かれた場、としてある。では本作にはどのような可能性が秘められているのか。
 『ケイコ 目を澄ませて』の舞台は登場人物がマスクを着用していることからコロナ禍であることはあきらかで、これがケイコにとって障害となる場面が多々ある。こうした齟齬は、インペアメントーー個人に帰せられるものとしての障害ーーではなく、ディスアビリティーー当人の身体状況と社会環境との間に生じる齟齬ーーの側面を明らかにしている。警官とのエピソードはこれが顕著で、マスクをしたまま話す警官とのコミュニケーションは絶たれている。
 一方、作品の中で対話の可能性に開かれていくのは中原ナナとケイコの母との関係だろう。中原ナナは物語終盤、手話を獲得することでケイコとのコミュニケーションを図る。一方、ケイコがボクシングを続けていることに懐疑的で、カメラをまともに向けることすらできなかった母は、遠巻きながらもケイコの試合を観戦するようになる。ジムや会長といった崩れつつあるケイコの基盤は、この2人の関係性に開かれてもいる。
 エリザベス•ブレイクは『最小の結婚』(白澤社、2019/11)で、家族の最小単位としてケアの領域を考えている。現代において、近代的な家族制度はパターナリズム、ロマンティック•ラヴ•イデオロギーなどの問題で、批判の対象としてある。そうした見方を引き継ぎつつも、『ケイコ 目を澄ませて』でケイコに開かれた関係性にケアの領域としての家族を見てみたい。ケイコの拠り所の崩壊を進める再開発は、家族が拠り所となる可能性を秘めているのではないか。

ケアすること/されること

 これはケイコが聴覚障害者であることがその理由ではない。安心していられる基盤を失うとき、不安や葛藤がともなうのは誰にでもある経験であり、再び安心を得るためには新たな基盤を必要とする。その基盤となる共同体の一つとして、ケアの領域としての家族が考えられるのである。それも、あくまでゆっくりと進行する変化ではあるのだが。
 「1人で生きればいい」と語るケイコに、聖司は「みんな姉ちゃんみたいに強くない」と返す。作品では過去のイジメやそれが原因で「グレた」こと等、ケイコの過去がそれとなく提示されているかま、その中のどの要素がケイコをボクシングに向かわせ、今の性格に至らせたかはわからない。ただ、ケイコにとってボクシングという競技は「1人で」、孤独に戦うものであったのは間違いない。一般に〇〇は実は団体競技、ということはよく言われるし、ボクシングもその一つだろう。しかし、聴覚障害者であるケイコにはセコンドの声もレフェリーの声も、会場の声も自分の味方をしてくれるものではない。
 すなわち『ケイコ 目を澄ませて』は「1人で生き」ると考えるケイコが「1人で生きる」ことができないことに気づく物語である。「嘘がつけず愛想笑いが苦手」な彼の性格は、「1人で」生きると決めた人物であるがゆえにできたものだろう。だが、ケイコはこれまでもこれからも「1人で」生きるわけではない。母との関係性、会長の行く末、後藤ジムへの移籍、ケイコの今後等、多くの伏線をそのままに、なにも解決することなく物語は閉じられる。先にも述べたが、これは様々な可能性に開かれているということでもある。であれば、ここにはケイコが相互にケアしつつ生きてきたこと、生きることに気付く可能性も秘めているのではないか。
 固定された関係性としてのケアではなく、流動的に変化する関係性としてのケアの可能性がここにはある。そうした場として家族を措定することは近代的な家族制度を批判することと共存するだろう。もちろんこれは家族共同体の在り方に転換を要求するものであって、家族共同体に全てを丸投げすることではない。本作には、そうした単体で生きることができない弱い生き物が、寄り合って、補い合って生きることが示されている。

静寂と騒音

 試合の勝敗、ジムの行く末、会長の体調不良、不和、葛藤、障害ーーこれらは全て〈日常〉に溶け込んでおり、その変化はドラスティックな転換ではなく、継ぎ目のない持続としてある。その意味で静かな作品である。だが、作品の表象に目を配れば(耳を澄ませばと言うべきか)、本作は一貫して多くの音を拾う。ミット打ちや縄跳びの音、街の騒音、咀嚼音、言葉。耳が聞こえない人物が主人公であることを知る私たちは、かえって主人公の意識にない音に着目してしまう。静寂と騒音が同居した作品と言えば良いのだろうか。
 一方、音と遠くあるように思えるケイコにもそれは身近なものとしてある。先に音は主人公の意識にない、と書いたがこれは訂正しなければならない。電車の接近を知らせる風、インターホンの点滅、ミットや人を殴る感覚、手話もここに入るだろうか。いずれにせよ、音は様々な形でケイコに身体化されている。この意味でもケイコは"私たち"と同じ世界を生きている。音を意識的に描くと同時に、聞くものとしてだけではない音の姿を丁寧に描いている。
 しかし、聞くことでしか音を感じ取れない"私たち"は手話を目にするとき不安に駆られる。ケイコと聖司の会話に顕著であるが、手話での会話はテロップが遅れてやってくる。テロップはあればいい方で、ないままに物語が進行する場合もある。このとき、"私たち"の心情は警察官や記者などとのエピソードにおける、ケイコの心情と一致するところがあるだろう。意味を感じ取ることができない不安を常に抱えつつ物語を鑑賞するとき、もしかすると"私たち"は"彼ら"が感じている世界に触れているのかもしれない。

声•文字•内面

 ケイコは感情表現や性格を与えられることはあっても、その内面は病床に伏す会長の側で日記を読み上げられることでやっと明らかになる。ケイコの内面は会長のパートナー•敦子を通して語られることになる。ケイコと会長の間に敦子を挟むことはノイズになるようにも思える。しかし、一方で観客は表情に乏しいケイコもまた喜怒哀楽様々な感情を持つ人物であることを再認させられるだろう。音声言語は真理•真意を示すものとして考えられてきたが、ここでケイコの真理•真意は書記言語を通して観客に伝達される。日記だけでなく、手話の字幕を追うことも同様である。ただ、誰に見せるものでもない日記であることは重要だろう。
 私は先にテロップの遅れに伴う意味の宙吊りが不安を誘うと述べた。ただ、終盤の会長夫婦の会話にも同種の不安を感じたのである。絶妙な間で進む会話は、互いの真意が本当に伝わっているのかと、私に静かに焦燥感を与えた。これは手話という言語体系によって相対化された音声による言語体系の姿が浮き彫りにされたことを示すのではないか。敦子を通してしか語られないケイコの内面や、手話における意味の遅れは、私に意味の伝達において不安をもたらす。だが、不可視化されているだけで、音声言語による会話も常にそうした不安をはらんでいるはずだ。手話、音声言語、書記言語ーーそのどれも特権的な地位を有するものではないし、いずれも誤配という不安をはらんだものである。
 こうした操作をもって、『ケイコ 目を澄ませて』の〈日常〉は描かれていく。普通の在り方をめぐって"私たち"の経験は異化されるだろう。本作は静かに、しかし力強く何かを訴えかける。"私たち"は「目を澄ませて」その変化を感じ取らなければならない。

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