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芸術鑑賞 歌川広重《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》

(約1350文字・購読時間1分40秒)

 安政4年(1857)9月に制作された。「大はし」は隅田川に架けられていた新大橋のことで、「あたけ」(安宅)とは、対岸にあった御船蔵周辺の俗称である。ここには幕府の御船蔵があり、かつて御座船安宅丸がけい留されていたのでこの名がついた。
 隅田川に架けられた新大橋をと北東側の対岸を舞台に、突然の激しい夕立に人々が足早に急ぐ姿を描いている。右から2番目の傘を差す人々は、よく見ると三人で一つの傘 に収まろうと必死だ。雨は鋭い斜線で描かれ、遠景はぼかし、何も見えないほどの雨足の強さを彫と摺で表現している。濃墨のあてなしぼかしが、上空に暗雲が立ち込める様子を映し出す。橋の角度に対し水平線の角度は右に下り、橋に交差するかのような接近を見せるが、その構図の違和感が、不安定な大気の様子をも演出しているといえるだろう。橋と対岸の家々のシルエットが画面右中央に向かってそれぞれ斜めに配置され、きわめて不安定な構図である。空の黒雲と川の水は、いびつな形でぼかし習がほどこされている。その結果、降雨の激しさや、橋を渡って先を急ぐ人びとの不安な気持ちを如実に伝える。雨は角度の異なる線をそれぞれ別の版木で彫り、墨の濃度を変えて招り上げている。このように、さまざまな工夫が相まって、絶妙なバランスを保ちながら、本シリーズの中の第一の傑作が完成した。『名所江戸百景』の中でも特に有名な作品で、広重の代表作ともいえる図。 『亀戸梅屋舗』と同様、ゴッホが油彩で模写したことで知られる。
 広重は、定火消同心の長男に生まれた。つまり武士である。父が早世して13歳で家を継ぎ、15歳頃に浮世絵師歌川豊広に入門し、27歳で隠居して画業に専念するようになる。養子や丁稚で苦労を重ねた北斎とは随分と境遇が異なる。役者絵、美人画、武者絵など、多彩なジャンルの作をこなしたが、北斎の『富嶽三十六景』に刺激を受けてか風景画を描きはじめ、天保4年(1833) に出した保永堂版『東海道五拾三次之内』は、彼の絵師としての方向性を決定づけた。以後、風景版画を非常に多く手がけている。東海道絵だけでも20種類以上。『木曽海道六拾九次』や伝統的画題の『近江八景』や多数の江戸名所揃物などおびただしい風景版画を描いた。晩年に至っても『名所江戸百景』や『六十余州名所図会』など、大部の風景画揃物を出した。
 広重の方向性を決定づけた保永堂版東海道には、広重作品の魅力が凝縮されている。この揃物の人気作品は、宿場の光景や付近の名所を説明的に描くものではない。図には天候、季節、時間帯などさまざまな脚色が施されている。具体的には雨、雪、霧、月、夜などで、北斎との違いがみて取れる。また、そこに登場する人物の多くは、笠で顔を隠したり、後ろ姿に描かれたりと、そこから表情をうかがうことはできない。人びとの表情や気持ちは鑑賞者が想像するしかない。だからこそ鑑賞が深まるともいえる。これを、あからさまに描かないと考えると、同様の効果は広重の他の作品にも指摘できる。シルエット表現も特に晩年の縦判の風景画で多用する画面の端でモチーフを切り取る手法も同じような効果につながる。
 こうして、広重は、各地の名所や宿場に取材し、それを抒情的で風情のある所に仕立てる名人として私たちの記憶に残っている。

参考文献
「文化遺産オンライン」『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202375


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