妻の置き手紙
登場人物
田宮有治
川島章太郎
田宮恵
1
舞台は、マンションの一室にある、田宮家の台所。
舞台中央には、一つのテーブルと二つの椅子が置かれてある。
テーブルの上には、一通のA4型の封筒と置き手紙がある。
玄関から、主人公・田宮有治が登場。
有治はバッグを手にしている。
有治「ただいま~。恵さん、今日の晩ご飯は? 恵さ~ん?」
有治、辺りを見回す。
有治「いないのか。どっか出かけてるのかな……。」
有治、ふとテーブルの上にある封筒に気づく。
その封筒をおそるおそる開けて、ぎょっとする有治。
彼は、テーブルの上にある手紙を取り、しばらくじっと読み出す。
間。
有治「なんだこれ……どういう意味だ?」
有治、バッグからスマートフォンを取り出し、電話をかける。
そんな状況の中、赤子を抱えているスーツ姿の男・川島章太郎が登場。
章太郎、有治の様子を舞台隅からじっと見守っている。
有治「あ、もしもし。……なんだ、留守電か。……(いらだった様子で)……ああ、もしもし、有治だけど。台所の置き手紙を読ませてもらったよ。それ、いったいどういう意味なの? というか、今どこにいるの? できれば君と、直接話がしたい。また返事を下さい。それじゃ。」
電話を切る有治。
章太郎「あなたが、有治さんですか?」
有治「……え?」
章太郎「恵さんから話は伺っておりますよ。なんでも、恵さんを精神的に追い込ませているらしいじゃないですか。おかげで彼女の精神状態がどうなっているのか、あなたでもこれで、十分わかったでしょう。」
有治「ああ、あの……どちら様でいらっしゃいます?」
章太郎「ああ、申し遅れました。私は、川島章太郎と申します。いつも奥さんにはお世話になってます。」
有治「(苦笑いして)はあ。で、どうしてウチに。」
章太郎「あなたの奥さんから鍵を預かりました。その鍵で、こうして中に入らせていただいています。」
有治「はあ……ウチの妻とは、お知り合いでいらっしゃるんですか。」
章太郎「ええ。すみません、ちょっとこの子を寝かせてきますね。」
有治「え、ええ……」
章太郎、舞台の奥へ退場。
間。
キイッと頭をかきむしる有治。
有治「(傍白)なんなんだ、あの男は。うちの息子に気安く触って! というか、ここ僕の家だよね? なんだ、あの図々しさは。」
章太郎、登場。
章太郎「いやぁ、すみません。さっきからお子さんがぐずってたものですから。ですがもう安心してください。今ではもうぐっすり。」
有治「ウチの子の世話を、今までしてくれてたんですか?」
章太郎「ええ。」
有治「いつから。」
章太郎「そうですね、午後の2時くらいからですかね。まだ日は高かったですから。」
有治「出て行ってください。」
章太郎「……え?」
有治「ここは僕の家です。出て行ってください。」
章太郎「……え?」
有治「聞こえなかったんですか? 出て行ってください」
章太郎「そこの置き手紙、読んでなかったんですか?」
有治「ええ、読みましたよ。それが何ですか」
章太郎「……私、恵さんの婚約者なんですよ」
有治「……はあ?」
章太郎「そんなに信じられないんですか?」
有治「いや、信じるも何も、恵さんって、僕の奥さんなんですよ」
章太郎「ええ、知ってますよ。」
有治「いや、そんな堂々と言われても……それってつまり、恵さんが、不倫をしてたってことですか?」
章太郎「ええ、まあそういうことになりますか。」
有治「いつからしてたんですか。恵さんと、その、不倫を。」
章太郎「……私が彼女と出会ったのは、とある名古屋のホストクラブでのことでした。その日に出会ってから、彼女は毎日、私のいるその店に通い詰めだったわけでして。」
有治「それって、どういう意味ですか?」
章太郎「言葉通りの意味です。」
有治「話がつかめないな……大体、恵さんはそんなホストクラブなんていう所に行く人じゃないし。それに……あなた、ホストをやられてるんですか?」
章太郎「そうですよ。何かご不満でも?」
有治「いや、不満はないですが。」
章太郎「まあ正確には、ホストで雇われているということですが。」
有治「つまり、ウチの妻が、おたくのホストに通ってたってことですか?」
章太郎「ええ。まあ正確には、私のホストクラブではないんですが」
有治「そんなことはどうでもいいんです。」
章太郎「それは失礼。」
有治「で、そんなあなたが、どうしてウチにやって来たんですか。」
章太郎「ですから、あなたに話をしに来たんですよ。」
有治「どんな用件で。」
章太郎「彼女の窮状を、説明するために来たんですよ。」
有治「……ちょっと、何言ってるんだか分かりかねますが。」
章太郎「あの、あなた本当に、この置き手紙を読まれたんですよね?」
有治「ええ。それと何の関係があるんですか。」
章太郎「まだ分からないんですか?」
有治「分からないですよ、もうさっぱり。だって……どうしてこんな手紙を書いていなくなったんだか」
章太郎「はっきりと申しましょう、田宮有治さん。恵さんは、もう、あなたのモノなんかじゃない。彼女から手を引いてくれませんか」
有治「……そんな、どうして。」
章太郎「この置き手紙に、書いてある通りです。」
章太郎、テーブルの上にある置き手紙の封筒の中から、離婚届の書類を取り出す。
章太郎「離婚を望んでいるんですよ。彼女は。」
有治「そ、そんな……」
章太郎、有治にうやうやしく離婚届の書類を見せる。
間。
有治「嘘だ。」
章太郎「嘘じゃありませんよ。この筆跡は、恵さんのものです。」
有治「嘘だ。嘘に決まってる。恵さんが、あの恵さんがそんなことする訳ない」
章太郎「私は事実を言っているんですよ。」
有治「何かの勘違いでしょう。」
章太郎「いいえ。この家のカギ穴は、預かったキーとピッタリでした。彼女の苗字は田宮、旧姓・山本で間違いありませんね?」
有治「それはそうですが。」
章太郎「『ですが』何なんですか。」
有治「同姓同名ということだって有り得る。」
章太郎「ではここの住所を確認しましょうか。」
有治「そんなことも知ってるんですか!?」
章太郎「ええ、恵さんが教えてくれたのでね。ここの住所は愛知県名古屋市千種区二丁目6番地タイガーズマンション603。間違いありませんね?」
有治「た、たしかにそうです。でもどうして。」
章太郎「彼女から直接聞いたからですよ。現に恵さんは、私の住んでいるアパートにいます。」
有治「えっ?」
章太郎「状況は、彼女からすべて聞いてますよ。よっぽど悩んでいたのでしょうね。自分の子供の世話もすっぽかして、涙を流しながらホストクラブまでやって来たのですから。」
有治「どういうことですか?」
章太郎「言葉通りの意味ですよ、有治さん。」
有治「どういう意味ですか?」
章太郎「ですから、要するに恵さんは、私のもとへ助けを求めにやってきたってことですよ。」
有治「そんな。あの恵さんがそんなことする訳ない……」
章太郎「私も正直びっくりしましたよ。あんなに人前を気にせずに泣く恵さんなんて、初めて見ましたからね。」
有治「おたくの家はどこにあるんですか。」
章太郎「そんなことを聞いてどうするんですか」
有治「決まってるじゃないですか。恵さんと話をするんですよ」
章太郎「あなたに教えるワケにはいきませんね。」
有治「どうしてですか」
章太郎「彼女がそれを望んでいないからです。いまの恵さんは、おそらくあなたの知っている恵さんじゃありません。頭がもうろうとしていた様子で、絶望した目つきをしてましたよ。もう本当に、かわいそうな顔をしてました。どうしてあんなになってしまったのか。」
有治「嘘でしょ?」
章太郎「嘘じゃありません。」
有治「いいや、ゼッタイ嘘だね。あなたは僕を、だまそうとしてるんだ。」
章太郎「だましてなんかいません。本当にそうなっているんです。」
有治「そんなバカな。」
章太郎「この筆跡に、見覚えはないとでもいうのですか?」
有治「……どうして。どうして僕に相談しなかったんだ。そんなに悩んでいたのだったら、一度僕に相談すればいいのに!」
章太郎「あなた方の事情については、よくは分かりません。ただ、彼女はいつもホストで、あなたに対する愚痴をよくこぼしていましたよ。また皿洗いや風呂掃除を押し付けられたとか、子育てや家事をまともに手伝ってくれないとか。」
有治「それは……」
章太郎「よっぽど、そういうストレスを貯めてたのでしょうね。」
有治「そんな。」
章太郎「田宮有治さん。あなたの気持ちも分からなくはありません。何しろ、急にこんな置き手紙を書かれて、離婚届まで突き付けられたのですから。しかし、これが現実なんです。これが、彼女の本心なんですよ。」
有治「何が言いたいのですか、あなたは。」
章太郎「……もう一度、ハッキリと申しましょうか。恵さんはもう、あなたのモノなんかじゃない。どうか、彼女から手を引いてくれませんか。」
有治「何を言ってるんですか。できませんよ。できるわけないでしょ」
章太郎「彼女は離婚を望んでいるんですよ」
有治「理由を聞かないで離婚なんてできますか」
章太郎「だから、この置き手紙に書かれてある通りだと言ってるじゃないですか。」
有治「置き手紙置き手紙って、大体何で、そんな形でしか伝えられないんですか。」
章太郎「……この手紙は、私が恵さんに書かせたものなんです。」
有治「え?」
章太郎「あなたには分からないでしょうね。あの時の彼女の心境がどういうものだったかなんて。実はですね、有治さん。彼女、私の前で告白をしたのですよ」
有治「告白……?」
章太郎「ええ。『自殺をしたい』って、そう告白したんですよ」
有治「……ええええええええ!?」
章太郎「声を上げないでくださいよ! お子さんが起きるでしょう?」
赤子が泣く声。
章太郎「ああ、もう! やっと休まってくれてたのに!」
章太郎、部屋の奥へ退場。
赤子の泣き声が止む。
章太郎の声「もう、だから言わんこっちゃない! 何時だと思ってるんですか」
有治「す、すみません……」
章太郎、赤子を抱いて登場。
章太郎「ホントに、気をつけてくださいよ。それでもお父さんでしょう。」
有治「ああ、あの……ウチの子を世話してくれるのはありがたいですが、そう気安く触らないでくれませんか?」
章太郎「ああ、それもそうですね。では、そちらへお渡しいたしますね」
章太郎、赤子を有治のもとへ手渡す。
すると、いきなり赤子がオギャアッっと泣き出す。
有治「ええっ? どうしてなの!?」
章太郎「さあ、さっぱり……」
有治「どうしよう、どうしよう~」
章太郎「(赤子を抱いて)よ~しよしよし、悪かったねぇ恵太くん。怖かったよねえ~。ほらほら、いないいない、ばあ~。」
声を上げて笑いだす赤子。
章太郎「よ~しよしよし、いい子で眠っててちょうだいね~。ん、なに。まだ眠れないの? 仕方ないなあ。それじゃあ、おじちゃんがトトロになってあげよう。」
章太郎、トトロの物まねをする。
しらける赤ん坊。
少しの間。
章太郎「……偉い! 偉いよ恵太くん! それじゃあ、この調子でちょっと、向こうで静かにしてましょうねぇ~」
章太郎、再び退場。
章太郎「ぶわあ~っ」
有治「……。」
章太郎、登場。
有治「あなた、子守りがうまいですね。」
章太郎「いやいや。あの子が私になついているだけですよ。」
有治「そうですね。たしかに、そのようですね……」
章太郎「有治さん。あなたよっぽど、子供の世話を怠っていたと見て取れますね。」
有治「す、すみません……」
章太郎「まったく、しっかりしてくださいよ。」
有治「それにしても、ずいぶんと手慣れてるじゃないですか。」
章太郎「子守りのことですか?」
有治「はい。恵太はあんなに大人しくなるような子じゃないんだけど……」
章太郎「まあ、たしかに最初はそうでしたね。」
有治「と言いますと?」
章太郎「実は、結構このお宅にはお邪魔させていただいてたんですよ。」
有治「えっ、そうなんですか?」
章太郎「ええ。ちょっと、座らせていただきますね。」
有治「え、ええ。」
章太郎、椅子に座る。
章太郎「ここに通うようになったのは、彼女の人生相談に乗り始めてからなんです。最初は一回きりのつもりだったんですが、恵さんの相談に乗っていくうちに何度も通うようになってしまって。あまりにかわいそうだったんですよ。それで私も、家事の手伝いをやるようになったんです。恵さんは、毎回毒を吐くように、私に愚痴をこぼすんですよ。『もう生きてられない』とか、『母親として私は失格だ』なんて言うのが口ぐせでしてね。」
有治「そうだったんですね。」
章太郎「ええ。有治さんの前では、そういう感じじゃないんですか?」
有治「はい。恵さんは、何事も一生懸命がんばってくれてて、いつも明るく振舞ってました。もしかしたら、僕は彼女に甘えていたのかもしれない。けど彼女は、それほど体調が悪かったようには、とても思えなかったな。」
章太郎「きっと、よほどあなたのことを気遣っていたのでしょうね。」
有治「それにしてもどうして。どうして恵さんがそんな状況に陥ったのですか。」
章太郎「いやぁ、私は恵さんじゃないですからね。よくは分かりません。」
有治「でも、何か理由があるはずでしょ? あなたの所に愚痴をこぼしに行ってたなら、何か言ってたでしょう。」
章太郎「いやぁ、でも私が聞いてたのは、とにかく『人生に疲れた』ってことばかりで。」
有治「本当にそう言ってたんですか?」
章太郎「あなたもしつこいですね。たしかに彼女はそう言ってたって何度言わせるんですか。」
有治「いや、だって……」
章太郎「だって何なんですか。」
有治「……一般的に考えてですよ? 普通、どこぞとも知らない赤の他人が、ウチへ勝手に入り込んでおいて、挨拶も何もなしに、いきなりこんな離婚届を突き付けられて、『ああ、そうですか。分かりました』なんて、すぐに受け入れられますか。受け入れられないですよ。たぶん日本中のどこの夫に聞いても答えは同じですよ? そもそも、あなたが詐欺をしている可能性だってあるワケですし、何よりも証拠がない。」
章太郎「証拠ならありますよ。この置き手紙が。」
有治「置き手紙が何なんですか。それだって、あなたが脅迫して書かせたものかもしれないじゃないですか。」
章太郎「そんなことできるわけないでしょう。」
有治「いいや、あなただったらできる。」
章太郎「どうして。」
有治「だって、赤の他人なんですから。僕とあなたは。」
章太郎「あなたって人は……よく考えてみてくださいよ。私は、ホストクラブで働いている一般の男性ですよ? もっとも、あなたにとっては『ホスト』という時点で、もう一般人扱いから外してしまうでしょうが。まあ一般人とさせてくださいよ。そんな一般人がですよ? なんでこんな平凡な家庭に入り込んで、ありもしない大金を探そうとするんですか。」
有治「すみませんでしたね、平凡で貧乏な家で。」
章太郎「いや、ちょっと語弊がありましたが……つまり、私が言いたいのは、そんな詐欺は存在しないってことですよ。いや、あるかもしれないけど、私が詐欺師だったら、こんなバカなことはゼッタイしませんよ。こんなことをする手間があるんだったら、すぐ騙されやすいおばあさんあたりに、電話で大金を振り込ませたほうが早いですよ。それだったら、経費は通話料だけですみますからね。」
有治「……。」
章太郎「田宮有治さん。現実を見てください。いま彼女は、本当に苦しい状況なんです。真面目に話をしましょうよ。彼女の未来がかかってるんですよ!」
有治「……恵さんは、そんなに悩んでたんですか。」
章太郎「ええ。」
有治「本当に悩んでたんですか。僕のことで。」
章太郎「ええ、そのようでしたよ。」
有治「だったらどうして。そんなに僕について悩んでたんだったら、どうして僕に相談しなかったんだ……」
章太郎「たぶん、相談しづらかったのでしょう。きっと。」
有治「えっ?」
章太郎「あなたの日頃の行いや振舞いについては、恵さんからよく聞いてますよ。あなた、よく恵さんをコキ使ってたそうじゃないですか。」
有治「コキ使う? 僕がですか?」
章太郎「ええ。家事や料理、そのほかの雑務もすべて彼女任せにして。おまけに子育てまで強いてるって聞いてますよ。」
有治「ええっ? それは、女性の本分というものじゃないんですか?」
章太郎「はっ?」
有治「いや、それはそうでしょ。僕は妻と子供のために、外で稼いでるんですよ? 汗水流して。だから普通、妻は家を守ることに専念するべきでしょう」
章太郎「ああ、だからなのか。やっと腑に落ちました。」
有治「どういう意味ですか?」
章太郎「有治さんね、あなたはあまりに自己中ですよ。考え方が古すぎです。」
有治「古すぎ? 僕の考えがですか?」
章太郎「そうです。何なんですか、今時そんな、男性優位なものの言い方をして。あなたはいったい何様なんですか。」
有治「あなたに言われたくないよ!」
章太郎「私のことはこの際どうでもいいんです。」
有治「いや、どうでもよくないでしょ。あなたは勝手に、他人のウチに入り込んでるんですから。」
章太郎「勝手にじゃないですよ。彼女の許可を得たうえでここにいるんです。」
有治「本当なんですか?」
章太郎「まだ疑ってるんですか。」
有治「当たり前でしょ。近頃そうやって、うまく口車に乗せる輩が増えてますからね」
章太郎「あなたって人は。ホント人間性を疑われますよ?」
有治「いや、それ普通でしょ。赤の他人なんですから、僕とあなたは。」
章太郎「まあ、それはそうですがねぇ。私だって、好きでこんなことをしてるんじゃないんですよ。」
有治「じゃあどうしてウチへ来たんですか。」
章太郎「ですから、全てはあなたに納得してもらうために、ここに来たんです。」
有治「僕に納得してもらうため?」
章太郎「つまりですね、要は彼女の離婚を認めてもらうために、ここにやって来たってことです。」
有治「僕が、恵さんと離婚をしろってことですか?」
章太郎「ええ、要するにそういうことです。」
有治「イヤですよ。」
章太郎「有治さん。」
有治「本当に彼女は、離婚を求めてるんですか?」
章太郎「そうです。」
有治「信じられませんよ。そんなの、嘘に決まってるでしょ。」
章太郎「だったら、私のほうから彼女のケータイにつなげてもいいんですよ。」
有治「え?」
章太郎「私の携帯から、彼女に連絡を取ってもいいんですよ。どうします? つなげますか?」
有治「できるんですか、そんなことが。」
章太郎「できますよ。私たちは、愛し合ってる仲なんですから。(と、携帯の番号を打ち始める)」
有治「そんなバカな。彼女があなたなんかに惚れるわけがない。」
章太郎「(携帯を耳に当てながら)失敬な。」
有治「だって。」
章太郎「ああ、もしもし恵さん? 私だよ、章太郎。いま恵さんの家にいるんだけど。……ああ、いるよ。有治さんのことだろ? それで、その有治さんが、君と直接話がしたいというんだ。今それはできるかい? ……ああ、そう。よっぽど複雑な思いを抱いてるんだね、恵さん。」
有治「どうせその電話も演技なんだろ?」
章太郎「なんだって?」
有治「お見通しなんだよ。僕の目は節穴じゃないんだ」
章太郎「この、言わせておけば……ああもしもし? ごめんよ、いま彼に電話中に話しかけられて。よっぽど私のことを信用してないみたいなんだ。」
有治「いいかげん、その演技をやめたらどうなんだ!」
有治、章太郎の携帯を取り上げる。
章太郎「何をするんですか!」
有治「(携帯を耳を当てて)もしもし? ……ほら、やっぱりそうだ。電話が切れてる。通話なんて元からしてなかったんだ」
章太郎「彼女が通話を切ったんですよ。」
有治「まだ嘘を通すか。」
章太郎「本当なんですって!」
有治「さてどうなんだか。」
章太郎「何ならもう一度電話してもいいんですよ? しかも音量を大きくして。」
有治「音量を大きく?」
章太郎「この電話のスピーカー機能で、彼女の声を聞かせてもいいんですよ?」
有治「……(携帯を章太郎に差し出し、)じゃあ、お願いしますよ。」
章太郎、有治から携帯を受け取り、再び通話を始める。
しばらく着信を待つ二人。
恵の声「もしもし。」
章太郎「ああ、もしもし恵さん? 章太郎だけど。」
有治「嘘でしょ……」
章太郎「(小さな声で)聞いてのとおりですよ(受話器に向かって)さっきはごめんよ。有治さんにいきなり、私の携帯をぶんだくられちゃって。」
恵の声「大丈夫?」
章太郎「なに、心配することはないよ。ただ彼は興奮してただけさ」
有治「そんなんじゃないよ!」
章太郎「静かにしてください、子供がまた起きるでしょう」
有治「で、でも……」
恵さん「そこにいるの?」
章太郎「ああ。私が詐欺師と勘違いされてるから、証拠を示すために、キミとの通話を彼に聞かせてるんだ。夜遅くにごめんよ。」
恵の声「いえ、私こそごめんなさい。いろいろ迷惑をかけてしまって。」
章太郎「いや、私のことはいいんだよ。気にしちゃいけない。」
恵の声「それで、章太郎さん。話は何?」
章太郎「いや、用件はもう済んだから。もう切るよ?」
恵の声「ああ、うん。それじゃあ。」
章太郎「うん。お休み。」
恵の声「お休みなさい。」
通話を切る音。
有治「本当、だったんですね。」
章太郎「ええ。これでもうわかったでしょう。」
有治「いや、わからない」
章太郎「どうして。」
有治「まだ彼女と直接話をしていない。」
章太郎「有治さん。」
有治「だって、納得できないんですよ! どうして彼女が、こんな状況になったのかがさっぱり。」
章太郎「お気持ちは分かります。ですが、今の彼女の心境は危機的状況なんですよ。」
有治「どういう意味で。」
章太郎「彼女、今でも死ぬかどうか迷ってるぐらいの状況なんですよ? 今はだいぶ落ち着いてきたみたいですが、いつまた『自殺する』と言い出すかわかりません。」
有治「そんな。」
章太郎「有治さん、わかってあげてください。彼女はもう、限界なんです。」
間。
有治「彼女と話がしたい。」
章太郎「有治さん。」
有治「彼女と直接話がしたいんだ。でなければ、離婚届にサインはできない」
章太郎「……わかりました。それじゃあ、もう一度彼女にお願いしてみます。」
章太郎、スマートフォンを取り出す。
有治「スピーカー機能を使ってください。」
章太郎「なぜ。」
有治「確認したいんです。」
章太郎「わかりました。」
章太郎、スマートフォンの画面をタッチする。
恵の声「もしもし?」
章太郎「ああ、もしもし。私だよ、章太郎。また電話しちゃってごめんね」
恵の声「ううん、大丈夫だよ。どうかしたの?」
章太郎「ああ。恵さんに話があって電話したんだ。」
恵の声「どんな話?」
章太郎「……恵さん。やっぱり、彼と直接話をしてほしいんだ。」
恵の声「えっ?」
章太郎「有治さんがね、君と直接話がしたいって言うんだ。」
恵の声「有治さんが?」
章太郎「そうなんだ。そういうことってできる?」
恵の声「……ねえ章太郎さん。」
章太郎「なんだい。」
恵の声「月、とてもきれいね。」
章太郎「えっ? ……ああ、ほんとだ。今夜の月は、格別にキレイだ。」
有治「あの~」
章太郎「(有治に謝る合図をして)……あの、恵さん。そうやって話をそらすのはやめてくれないか。彼と向き合ってほしいんだ。もちろん、彼に十分説明したさ。でも、有治さんはいまだに私の言うことを信じてくれてないんだ。」
恵の声「そうなの?」
章太郎「ああ。それで君の離婚をなかなか認めてくれないんだよ。」
恵の声「そう……」
章太郎「だから恵さん、君のほうからハッキリと言ってほしいんだ。君がどれだけ苦しい状況に置かれてるのかを、彼に直接話してほしいんだ。私の方からも話はした。けど、それが彼には伝わってないんだ。頼む、恵さん。君が有治さんに直接話をしてほしい。ハッキリと言ってほしいんだ。頼むよ。」
恵の声「……どうしても、行かなくちゃいけない?」
章太郎「ああ、できれば来てほしい。できるかい?」
恵の声「……うん。わかった。それじゃあ、いまから家へ戻るね。」
章太郎「ああ、頼むね。」
恵の声「ホントに、ごめんなさい……」
章太郎「いや、いいんだ。いい? 自分を責めすぎちゃダメだからね?」
恵の声「うん。それじゃあ。」
章太郎「ああ。」
電話を切る章太郎。
有治「来てくれるんですね?」
章太郎「ええ。」
有治「コーヒーでも淹れましょうか。」
章太郎「えっ?」
有治「コーヒーでも、淹れましょうか?」
章太郎「……ええ。それじゃあ、お願いします。」
有治「わかりました。」
有治、インスタントコーヒーを淹れだす。
間。
章太郎「それにしても、思ってた感じとはずいぶん違いますね。」
有治「何がですか?」
章太郎「あなたの人柄のことですよ。」
有治「ああ。」
章太郎「私はてっきり、もっと横暴な人だと思い込んでました。」
有治「ああ、そんなに人相が悪く見えますか? 僕の顔。」
章太郎「いえ、そうではなくて。彼女から聞いた話だと、どうも人でなしといいますか、思いやりのない人だと思い込んでしまって。」
有治「なるほど。」
章太郎「いやぁ、今日はこうして、勢い余ってお宅に乗り込んじゃいましたが、なんか拍子抜けしたなぁ。」
有治「拍子抜けって。どんだけ気合い入れてたんですか。」
章太郎「いや、だって人様のウチに押し入るわけですから、緊張するでしょ、多少なりとも」
有治「まぁ、そりゃそうでしょうね。」
有治、コーヒーを章太郎に差し出す。
頭を下げ、ゆっくりとコーヒーを飲む章太郎。
有治「恵さんは、僕のことを何て言ってました?」
章太郎「いやぁ、何と言いますか、結構あなたを悪者のように言ってましたね」
有治「悪者ですか。まあ、ある意味そうかもしれないですね。」
章太郎「お仕事は、何をされてるんですか?」
有治「僕ですか?」
章太郎「あなた以外に誰がいますか。」
有治「まあ、そうですね……僕は、紙製品の営業職に就いてるんです。」
章太郎「へえ、紙製品を。」
有治「はい。」
章太郎「ユニークですねぇ」
有治「そうですか?」
章太郎「ええ。」
有治「紙製品のどこがユニークなんですか。」
章太郎「いや、私にとっては新鮮味のある職業だなと、思っただけです。」
有治「なるほど。」
章太郎「営業のお仕事なんて、結構大変なんじゃないですか? 人と接する仕事ですから。」
有治「そうなんですよ。いつも上司からノルマを課されて、おかげで毎日が緊張の日々です。」
章太郎「そうなんですか。」
有治「はい。」
章太郎「しかし、何でそんな大変なお仕事に就かれたんですか。」
有治「実は僕、小さい時から紙製のプレゼントボックスが好きだったんです。」
章太郎「ほう、そうなんですか。」
有治「はい。」
章太郎「珍しくありませんか? そういうのに興味を持たれるなんて。」
有治「よく、そう言われます。」
章太郎「何でまた、そういうものに興味を持たれたんですか。」
有治「魅力があるからなんです。」
章太郎「何が。」
有治「何がって、紙製品ですよ。紙製品は、どこの世界でも宅配とか引っ越しとか、贈答用の梱包材にも使用しますよね? すごくないですか? 握れば潰れちゃうあの紙っていう素材が、世界中の物流を支え続けてるんですよ? 僕はそれを想像するだけで、今の仕事に生きがいを感じちゃうんです。」
章太郎「それは結構なことで。」
有治「小さい時から、紙の力で世の中を支え続けたいって思ってたんです。」
章太郎「へえ、小さい時からの夢だったんですか。」
有治「はい。」
章太郎「どういうきっかけで持つようになったんですか、そういう夢を。」
有治「今でも忘れません。僕は小さい頃、友達に恵まれなくて、それに、親からの愛情にも飢えてました。毎日孤独な日々を過ごしてたんですよ。けどそんな時に、幼稚園の先生がやさしく教えてくれたのが、紙工作でした。糸電話から始まって、段ボール箱でガンダムをつくったり、剣や盾をつくったり。とても楽しかった! それで、僕は幼いながらに決心したんですよ。いつか、日本一の紙工作名人になるんだって。」
章太郎「紙工作名人。つまり、ペーパークラフトですか。」
有治「そうです。不思議ですよね。当時は本気で、そんなことで食べていけると思ってたんですから。」
章太郎「いやいや、そういうものですよ、小さい頃っていうのは。」
有治「そうですか?」
章太郎「ええ。それに、その夢だって立派な目標じゃないですか。」
有治「そんな。」
章太郎「いや、とてもいい夢だと思いますよ。ほんとに、そう思いますね。」
有治「そうですか……」
章太郎「夢を持つことは、とても大切なことだと思いますよ。私なんかは毎日が忙しすぎて、そんなことを考える余裕もなかった。」
有治「そうなんですね。」
章太郎「ええ。私の場合は、今ついてるこのホストの仕事、金になる仕事だから働いてるだけなんですよ。でなければ、こんな仕事はなかなかやりません。薄汚い世界ですよ、ホストの業界は。女性客の相談相手になるかわりに、金をもらうんだから。別にホストがいなくたって、たいていの人は生きていけます。でも一部の人は、私たちのような人を求めてるんですよね。どんなに高いワインを飲まされても、彼女たちは、私たちプロの相談相手を求めてくれるんですよ。」
有治「なるほど。ホストの世界も、奥が深いんですね。」
章太郎「いや、奥が深いというか……」
有治「ちなみに、ウチの妻はどれだけ払ってきたんですか?」
章太郎「え?」
有治「あなたが所属するお店に対して、どれだけお金を払ってきたんですか?」
章太郎「え、まあ……計算してる訳じゃありませんが、最低でもざっとコレぐらいですか。(と、指を二本立てて有治に示す)」
有治「二千円ですか?」
章太郎「まさか。そこらの飲み屋とは違うんですよ?」
有治「じゃあ……200円じゃないですよね?」
章太郎「(声を上げて笑う)そんなワケないでしょう。」
有治「じゃあ、いくらですか。」
章太郎「二十万ですよ。」
有治「ええっ!? 二十万ですか?」
章太郎「はい。一回一回の支出が高いですからね、ホストクラブへ行くと。」
有治「なるほど。」
章太郎「あなた、ご自分のお金なんですから、それぐらいご存知でしょう。」
有治「いやぁ、全く。」
章太郎「どうして知らないんです。」
有治「ウチの家計は、恵さんに任せてましたから。」
章太郎「えっ? そんなことまで妻任せだったんですか?」
有治「いや、だって買い物をするのは彼女だし、そういう通帳の金額は知っておきたいかなと思って……」
章太郎「あなたって人は。」
有治「ええっ? 僕なにか悪いことをしましたか?」
章太郎「いや、悪いもなにも、自分のお金の管理までさせるなんて、どうかしてますよ。」
有治「そうですか? 家計の管理を妻にさせている同僚の社員は、結構いますよ?」
章太郎「私が言いたいのはそういうことじゃない。」
有治「じゃあどういう意味ですか。」
章太郎「あなたのその姿勢が、あまりにも情けないって言いたいんですよ。」
有治「情けない? 僕の姿勢がですか?」
章太郎「責任逃れしようとしてるでしょ。あなた。」
有治「いや、それは……」
章太郎「何ですか。なにか正当な反論でもあるんですか?」
有治「いや、『反論』って……。」
少しの間。
有治「よく考えてみると、たしかに、僕は面倒なことを恵さんに押し付けてたかもしれない。でも僕は、神に誓って、彼女に責任までも押し付けようとしてはいません。」
章太郎「だとしても、あなた自分の仕事が、極端に少なくありませんか?」
有治「えっ?」
章太郎「話を聞いてると、その営業の仕事以外で、家でどんなことをやってるんですか。」
有治「それは。」
章太郎「はい。」
有治「……やってないですね。何も。」
章太郎「ほら。やっぱりそうでしょう。」
有治「忙しかったんですよ、仕事の方で。」
章太郎「それにしても一つは手伝ったりするでしょ。お風呂掃除とか、窓拭きとか。あなたの話を聞いてると、恵さんがどれだけの家事を抱えてきていたのか、想像するだけで吐き気がしますよ。これじゃまるで一人暮らしと同じじゃないですか。いや、一人暮らしよりも質が悪い。」
有治「……。」
間。
有治「恵さんは、よっぽど追い込まれてたのでしょうか。」
章太郎「どうやら、そのようですよ。彼女はいつも、青ざめた表情をしてましたからね。」
有治「そんなに辛いものなんですか、子育てや家事って。」
章太郎「それはそうだと思いますよ。私、母子家庭で育ってる人間ですから、女手一つで子供を育ててる人の苦労が分かるんですよ。父親のいない家庭のつらさが、痛いほど分かるんです。」
有治「そうですか。」
章太郎「ええ。たとえば子供のうんちの処理だとか、病気の看病とか。あれなんか、最初のうちは相当苦労しますよ。私も弟の世話でよくやったものですが、とても耐えられませんね。ましてや、恵さんのような初心者の場合だったら、特に大変だったはずです。誰も教えてくれませんからね、今時。もっとも、そういうのをスマホやネットで検索すればヒットはするのでしょうけど。」
有治「そうですね。」
章太郎「有治さん、本当にそういう手伝いもしてなかったんですか?」
有治「はい、全く。恥ずかしながら。」
章太郎「ダメですね、まったく。そういう所はしっかり配慮してあげなくちゃ。だから彼女は追い込まれていくんですよ。」
有治「それについては深く反省してます」
章太郎「死なれてから反省しても遅いんですよ?」
有治「それはそうですが……」
章太郎「はぁ、結局のところ、あなたには分からないんですね。」
有治「何をですか。」
章太郎「女性の苦しみをですよ。産後うつがどれだけ辛いのかが、あなたにはさっぱり理解できてない」
有治「それは……」
章太郎「なんですか。何か反論でもありますか?」
有治「……分かってたんですよ。分かってたつもりですよ。結婚して、彼女が子供を産んでから、どうも様子がおかしいなとは思ってたんです。だから、本当は恵さんを、もっといたわらなくちゃいけないとは、思ってたんです。だけど、彼女はそんな愚痴をこぼさないから。てっきり彼女は元気だったと思い込んでたんですよ! まさか、これほど追い込まれてたなんて、知らなかったんですよ~!」
章太郎「……それは、気の毒でしたね。しかし有治さん。何度も言ってますが、これが現実なんですよ。これこそまさに、身から出たサビというものです。」
有治「あなたはいったい何なんですか? 僕たち夫婦の何を知ってるんですか。何も知らないでしょ!?」
章太郎「たしかに、私はあなた方の夫婦仲における事情はよく分かりません。しかしですね、有治さん。私は恵さんのことについては、あなた以上によく知っていると自負しています。」
有治「例えば。」
章太郎「『例えば』って言われると……例えば、恵さんは、大の実写映画好きです。」
有治「何ですか、それ。そんなことしか知らないんですか。」
章太郎「じゃああなたは、恵さんの何を知ってるんですか。少なくともあなたは、あの人の産後うつのことを、何も知らなかったじゃないですか。」
有治「そ、それは……」
章太郎「いま彼女は、私を求めてるんです。少なくとも、今はあなたに愛を求めてはいないんですよ、彼女は。」
有治「それは、たしかにそうみたいですが……」
章太郎「ようやく、お分かりになりましたか」
有治「ですが、だからといって彼女との離婚を認めるつもりはありません。」
章太郎「どうして。」
有治「『どうして』だって? だって僕たち、結婚してるんですよ?」
章太郎「そりゃそうですよ。」
有治「いや、最後まで話を聞いてください。僕らは結婚してるんです。しかも、恋愛結婚ですよ? 互いに永遠の愛を誓い合った仲なんです。そうやすやすと認められるわけないじゃないですか。」
章太郎「ですが、彼女は離婚を望んでいるんですよ。」
有治「そんなの嘘っぱちだ」
章太郎「嘘じゃないですってば。いいかげん状況を理解してくださいよ。さっきあなたも聞いたでしょう。」
有治「あなたが口説いて、恵さんを洗脳させたんじゃないですか?」
章太郎「そんなことしてません。というかできません。」
有治「ホントにぃ?」
章太郎「私はただ、彼女の相談相手になっただけなんですよ。別に、私から彼女を口説いたわけでもなければ、ホストのチラシすらも渡した覚えもありません。彼女のほうから歩み寄ってきたんですよ。」
有治「ですがそれにしても、何でこうも堂々としてられるんですか。」
章太郎「え?」
有治「だってそうでしょう。恵さんの不倫相手でしかないんですよ、あなたは。僕は正式な夫で。」
章太郎「それがどうしたってんです。」
有治「どうしたって……つまり、あなたの言ってることをすべて受け入れたら、彼女は僕を差し置いて、不倫をしたってことじゃないですか。」
章太郎「不倫をして何が悪いんですか。」
有治「いや、悪いでしょ。不倫は明らかに人の道から外れてるんだから」
章太郎「飲んだくれた亭主につかえるよりはマシでしょ」
有治「誰が飲んだくれてるって? 僕はお酒控えめですよ?」
章太郎「いや、つまり私が言いたいのはね、そもそも、あなた自身に問題がなければ、恵さんは不倫をせずに済んでるってことですよ。」
有治「……僕が悪いってこと? 僕が全部、恵さん任せにしたのがいけないっていうの?」
章太郎「全てが悪いとは言ってません。彼女のうつの要因の一つじゃないかと、言ってるだけです。」
有治「(バカデカい声で)悪いってことじゃないか!」
章太郎「ああ、だから子供がまた起きちゃいますって」
有治「いいですよ、もう。いっそこのマンションが潰れるほど、泣きわめけばいいんだ。」
章太郎「あなた、酔ってるんですか?」
有治「酔ってないですよ。疲れてるんですよ。」
章太郎「何に。」
有治「もちろん、仕事にですよ。営業職はホント大変な仕事なんですよ?」
章太郎「それはそれは。」
有治「あなたには分からないでしょうね、そういう苦労は。」
章太郎「だからって人に当たることはないでしょう。これじゃあ、恵さんも逃げてしまいたくなるわけだ。」
有治「え?」
章太郎「あなたは私の思った通り、自己チューな人です。自分の仕事に明け暮れてばかりで、周りのことを考えようともしない。こんなんだから、彼女は私のような人に逃げ込んでいくのですよ。」
有治「僕だって、こんなイライラをぶつけたくはないよ。たしかにあなたが言うように、周りを気にしなさ過ぎたことについては、僕の反省点だとは思いますよ。でも、僕だって人間なんだよ~う。どうして、どうして恵さんはこんな男に惚れたんだ。」
章太郎「こんな男って。」
有治「悔しい、悔しいよ~ぅ」
有治、机の上に顔を伏せる。
章太郎「……あなたにとっては、どうしても受け入れられないでしょうね。しかしですね有治さん、この置き手紙に書かれてある通り、彼女は決心したんですよ。自殺をやめて、あなたからの愛情を求めるのも諦めて、新しい人生を歩むんだって。あなたは自分に甘すぎた。自業自得です。これから彼女は、私の恵さんとなるんです。さあ、いいかげん現実を受け入れてください。」
有治「イヤだ!」
章太郎「有治さん」
有治「イヤなものはイヤだ!」
章太郎「……じゃあ、恵さんが来るのを、しばらく待ちましょうか。」
有治「……。」
しばしの沈黙。
時計の針の音が、かすかに舞台上に響く。
有治、壁にかかっている時計を見つめる。
有治「懐かしいな。この時計、僕が彼女と結婚したときに買ったものなんですよ。」
章太郎「ほう、そうなんですか。ずいぶんと風流ですね」
有治「でしょう? 今時は何でもデジタルな時代になりましたからね。僕、この時計を見るたびに思い出すんですよ。恵さんのふっと微笑む顔が。その笑顔を思い出すたびに、僕はホンットに、強い生きがいを感じるんですよ。紙の力で社会を支えるっていう夢は、叶いはしましたよ。収入も安定してる。けどそれ以上に、彼女がニコッと笑ってくれる瞬間こそが、僕が生きるための、大きな糧となってるんです。」
章太郎「なるほど。それはそれは。……あの、ちょっと質問なんですけど。」
有治「何ですか。」
章太郎「いえ、大した質問じゃないんですが。」
有治「何なんですか?」
章太郎「いえ、その……カテって、どういう意味かなあって。」
有治「はい?」
章太郎「いや、だって分からないんですよ。何で生きるために勝たなくちゃいけないのかが、さっぱり。」
有治「はあ?」
章太郎「いや、だから、生きるために『勝て!』って、どういう意味かなあって。」
有治「どういう意味ですか?」
章太郎「いや、だから。その『勝て!』という意味が分からなくて。」
有治「糧というのは食べ物や栄養のことですよ。別に僕は、勝負に『勝て!』という意味で使ってはいません。」
章太郎「ああ、なるほど。これでやっと腑に落ちました。要するにあなたは、恵さんのことがそれだけ好きだってことなんですね。」
有治「そうですよ。当たり前じゃないですか。」
章太郎「そりゃあ、そうですよね。あなたは仮にも、恵さんと結婚なさってますからね」
有治「『仮にも』は余計ですよ、『仮にも』は。」
章太郎「ああ、すみません……」
有治「まあ、別にいいんですけど。」
間。
有治「知らなかったんですか。」
章太郎「え?」
有治「『糧』という言葉を、知らなかったんですか。」
章太郎「ええ、まあ。」
有治「そうですか。その言葉は、高校で普通に習う言葉だと思いましたけど。」
章太郎「私、まともに通えてませんでしたから。」
有治「あ、そうなんですか。」
章太郎「はい。家やバイトが大変で。」
有治「通う余裕がなかったってことですか?」
章太郎「ええ。まあそうですね。」
このあたりのタイミングで、一人の女性・田宮恵がゆっくりと姿を現す。
だが、章太郎は自分の話で夢中になっていて、彼女に気づいていない。
章太郎「まあ、あなたの恵さんへの想いはよくわかりました。しかしですね、私だって恵さんのことが好きなんです。あなたに負けているつもりはこれっぽっちもありません。それだけではありませんよ。私は彼女に求められてるんです。ですから有治さん、私こそ、まさに彼女から……」
有治「……。」
章太郎「どうかしましたか、有治さん。」
有治「恵さん。」
章太郎「えっ?」
振り向く章太郎。
間。
有治「恵さん。」
恵、おそるおそる有治に近づく。
有治も近寄ろうとするが、恵はとっさに、章太郎のもとへ寄る。
有治「……恵さん。これって、どういうこと?」
恵「ごめんなさい。」
有治「謝ってほしいんじゃない。僕の質問に答えてほしい。……つまり、こういうことなんだね?」
惠「ごめんなさい……」
有治「恵さん。」
章太郎「有治さん。……だから言ったでしょう。彼女の心境は、この置き手紙に書かれてある通りだって。これで、納得いただけましたか?」
有治「そんな……そんな。」
章太郎「何なら、ここで私が、いま一度読んで差しあげてもいいんですよ?」
有治「……。」
章太郎、机にある置き手紙を読み始める。
章太郎「『田宮有治さん、今までどうも、ありがとうございました。私は、実は子育てを始めてから、ものすごい疲労を覚えていました。恵太を産んでからおよそ半年後、私は、なぜか殺人衝動に何度も襲われました。私は、精神的に病んでしまったんです。精神科病院にも、実はあなたの知らない間に、何度も通っています。ですが、医者は気休めの薬しか手渡してくれず、薬を飲んでも『死にたい』という願望が日に日に強くなっていくだけでした。もう、人生に絶望してしまったんです。私、母親として失格だよね? ……グダグダ書いてもラチが明きませんので、ハッキリと書くね。私は、あなたとの離婚を求めます。そして私は、私のことを本当に分かってくれている人と、再婚します。さようなら。山本恵(旧姓・田宮恵)』」
有治「……。」
章太郎「この手紙の内容に関して、なにか聞きたいことはありますか?」
有治「……あるよ。ありまくりだよ。恵さん、僕は、全てを君のために尽くしてきたつもりだ。家族を養うために、本当に必死だったんだ。なのに、その間に君が、まさかこんなことになってたなんて……どうして、どうして僕に相談しなかったんだ!」
恵「……だって、あなたいつも、仕事のことで一杯だったじゃない。休日の時も、いつも会社からの電話に追われて。食事の時も、まともな会話ができてた日が何日あったの? なかったでしょう?」
有治「それは……」
恵「相談しようとしたら、あなたいつも言ってたよね? 『悪い。今は忙しいから、また今度』って。それで、忙しくない時に話しかけても、あなたはいつもこう言ってたじゃない。『今日は疲れたから、また今度』って。何度も何度も待ってたのよ。けど、あなたはいつまで経っても相談に乗ってくれなかったじゃない!」
有治「恵さん、それは……」
恵「あなたの言い訳なんか聞きたくない!」
有治「……。」
恵「私、もう、限界なの。もう、限界なの……!」
章太郎「恵さん。」
章太郎、恵の肩を抱き寄せる。
章太郎「もうこれで分かったでしょう。」
有治「そんな……恵さん」
有治、恵の両肩を強くつかんで向き合う。
有治「思い出してくれよ。僕たちがここまで来るのに、どれだけ時間をかけて付き合ってきたか。僕は、君のことを分かってたつもりだった。けど、まさか君が、そこまで追い込まれてたなんて知らなかったんだよ。」
恵「お願い、離して」
有治「教えてくれ、恵さん。僕は何が悪かったんだ。僕にできることがあれば何か言ってくれ。」
恵「私はもう決めたの」
有治「僕に悪いことがあったのならすぐに直すから。だから、お願いだから僕から離れないでくれ!」
章太郎「ふざけたことを言うな! (恵を有治から引き離し)自分のストレスを日頃からぶつけておいて、この期に及んで泣き寝入りをするだなんて」
有治「あんたに何が分かるんだ! 毎日毎日、飲みたくもない酒に付き合わされて、気をつかって、それでも誰も、僕を全然いたわってくれないこの気持ちを、あんたは理解できるのか!? 疲れてるときに笑顔になれる奴なんて、いないんだよ。仕事に追われて疲れてるっていうのに、これ以上心の余裕なんて持てやしないんだよ!」
恵「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
章太郎「君は悪くないよ、恵さん。」
恵「でも、有治さんが。」
章太郎「こんな男のことを気にする必要はないよ。君は君の人生を歩むんだ。自分に素直になるんだ」
恵「でも……」
有治「恵さん、正直に言ってくれ。僕は何がいけなかったんだ」
章太郎「しつこいですよ、有治さん。」
有治「(無視して)本当にこんな男が好きになったの? 何かの勘違いなんじゃないの!?」
章太郎「有治さん!」
恵「ごめんなさい! ……私は……私は、この章太郎さんが好きになっちゃったの。」
有治「恵さん。」
章太郎「ほら、これでもうわかったでしょう、有治さん。」
有治「そんな、嘘だ……嘘だぁ~!」
その場で泣きうなだれる有治。
恵「有治さん……」
有治「嘘だと言ってくれ。何かの勘違いだと言ってくれ!」
恵「……ごめんなさい!」
有治「うあああ~!」
泣き続ける有治。
間。
恵「……私、間違ってた。やっぱり、間違ってた」
章太郎「恵さん。」
恵「やっぱり、私にはできない」
章太郎「えっ?」
恵「最期に、あなたのような人と巡り合えて、本当によかった」
章太郎「何を言ってるんだ、恵さん。」
恵「私は人間として失格よ。あなたと生きる勇気はもう、ない。さよなら!」
恵、ベランダに出て、飛び降りようとする。
有治・章太郎「恵さん!」
有治、ベランダに出て、恵を抱いて止める。
恵「放して! 放してったら!」
有治「放せないよ」
恵「私は今すぐ死にたいの!」
有治「そんなこと言わないでくれ! 君が死んだら恵太はどうなるんだよ。あの子を置いて『死ぬ』だなんて言わないでくれよ!」
恵「私は親として失格なのよ!」
有治「まだやり直せるよ」
恵「できないよ」
有治「できるよ」
恵「できないよ!」
有治「できるよ!」
恵「どうして! あの子を育てられる自信なんてないのに、どうやって生きればいいの!」
有治、恵をぎゅっと抱きしめる。
有治「すまなかった! 許してくれ! 全部、僕が悪かったんだ!」
恵「……有治さん。」
有治「結局僕は、君に甘えてたんだ。僕は子どものように、君に責任を押し付けてたんだ。自分だけ楽に生きようとしてただけだったんだ。」
恵「有治さん……」
有治「お願いだ、恵さん。『死ぬ』なんて言わないでくれよ。せっかく子供も健全に育ってくれてるんだ。それに、君がいなくなると、寂しいよ……」
恵「有治さん……」
有治「死なないでくれ。恵さん、死なないでくれ!」
恵「……。」
章太郎「有治さん……」
有治「好きなんだ。僕は君のことを、愛してるんだ」
恵「有治さん……。」
有治「ごめんよ、恵さん。僕が全部悪かったんだ。ごめんよ。ごめんよ……!」
有治、恵を再びぎゅっと抱きしめる。
間。
恵「……ごめんなさい……ごめんなさい!」
恵、泣きはじめる。
有治「君は、ただ疲れてるだけなんだ。あまりに辛いことが重なりすぎて、疲れ切ってるだけなんだ。でも、もう心配はいらないよ。僕は……僕は、もう十分、君の状況を理解できたから。恵さん……生きてくれ。あの子のためにも生きてくれ!」
章太郎「……。」
寂しげな音楽。
抱擁をやめる有治。
有治「章太郎さん。僕、認めますよ。」
章太郎「えっ?」
有治「僕と彼女との離婚を、認めます。辛いけど、これが、彼女の望みだというのなら……」
章太郎「そうですか……!」
有治「恵さんを、よろしくお願いします。」
章太郎「はい!」
有治、部屋に戻ってテーブルの上にある封筒に手を伸ばす。
子どもの泣き声。
有治「ああ、恵太の泣き声が聞けるのも、これで最後か……恵さん、キミは親として失格なんかじゃない。むしろ、僕のほうがダメダメだった! ああ、悔しい。悔しいな!」
章太郎「有治さん……」
有治、離婚届にサインをして、捺印をする。
そして、彼は恵に、その書類を手渡す。
恵「有治さん。」
有治「短い間だったけど、僕は、とても幸せだった。でも、君を幸せにすることができなかった。ごめんね……ごめんよ!」
有治、深々と頭を下げる。
溶暗。
2
舞台は前場に同じ。
有治は、テーブルの上で眠っている。
インターフォンの音。
ドアを叩く音。
インターフォンの音。
有治、目を覚まし背伸びをする。
そして、彼は頭をかきむしりながら退場する。
間。
章太郎の声「お邪魔いたします。」
有治の声「どうぞ。」
有治、章太郎登場。
章太郎「いやぁ、昨日はすみませんでしたね。ずいぶんとお騒がせして。」
有治「いえ、こちらこそ。まあおかげで、今日は朝から、近所の人からの苦情や心配の声が殺到したんですが。」
章太郎「すみません。」
有治「いえ、いいんです。そもそもの発端は僕自身にあったのですから。……それより、どうですか。恵さんの状態の方は。」
章太郎「ええ、それが……」
有治「はい。」
章太郎「昨日は、私の家に泊まったのはご存知の通りですが、彼女、以前とはずいぶん変わってしまいました。」
有治「変わってしまった?」
章太郎「はい。」
有治「どんなふうに。」
章太郎「いやぁ、なんか彼女、私と距離を置くようになったと言いますか、以前と違って、そっぽを向くようになったんです。」
有治「えっ? どうしてですか?」
章太郎「それが、よくわからないんです。顔色は良くなっているんですが、なぜかまだ、急に涙をこぼしだしたり、ぼそぼそとひとり言を言ったりして。どうも元気がないんです。」
有治「そうですか。」
章太郎「どういうことだと思います?」
有治「いや……どういうことでしょうねぇ。」
章太郎「逆に質問しないでくださいよ」
有治「いや、すみません。彼女、たしかに僕と離婚したいって言ってましたよね。」
章太郎「ええ。」
有治「そしてあなたと再婚をしたいって、たしかに言ってましたよね?」
章太郎「ええ、そのはずなんですが。」
有治「もう倦怠期に突入したんですか?」
章太郎「ケンタッキー?」
有治「違います。倦怠期。つまり、飽きてしまう時期ってことです。」
章太郎「ああ、なるほど。」
有治「もう飽きられちゃってるんですか? まだ再婚もしてないのに。」
章太郎「いや、飽きられちゃってると言いますか……」
有治「それとも夫婦喧嘩とか。」
章太郎「まだ夫婦じゃないですよ。」
有治「ああ、それもそうか。」
章太郎「喧嘩もしてないんです。一応、仲はいいんです。」
有治「それだったら、何が不満なんでしょうねぇ。わからないなぁ。」
章太郎「実はですね、有治さん。どうやら恵さん、まだあなたのことを想ってるみたいなんですよ。」
有治「えっ?」
章太郎「今回こうして、またお邪魔させていただいたのは、そのことで話をしたかったからです。」
有治「なるほど。でも、どうして急に。」
章太郎「彼女、あれから何か寂しそうにボーっとしてるんです。」
有治「ボーっとしてる。」
章太郎「はい。それで、時々あなたの名前をつぶやいたり、いまだに『ごめんなさい』なんて言い出したりするんですよ。」
有治「そうなんですか?」
章太郎「ええ。」
有治「そんなまさか。」
章太郎「いや、たしかに彼女は、そう口にしてました。私も正直驚いたのですが。」
有治「しかし、それだけで何で、恵さんが僕のことを想ってるってわかるんですか?」
章太郎「いや、これはあくまで私の推測でしかないんですが。彼女、あなたのことを話題に出すと、なんか目をキラキラさせて、明るい表情になったんですよ。」
有治「明るい表情に?」
章太郎「ええ。あんなに明るい表情を見せた恵さんは、初めてですよ。今まで、彼女はずっと俯いてました。初めて会った時から、とても重苦しそうな表情をしていたんですよ、彼女は。しかし、昨日の夜をきっかけにして、彼女は変わりました。恵さんに、生気が戻ってきたんですよ。」
有治「それって、たぶん僕との離婚が叶ったからなんじゃないですか?」
章太郎「私も最初はそう思い込んでました。しかし、彼女は今朝から、以前とは全然違った振る舞いをするようになったんです。」
有治「たとえば。」
章太郎「たとえば、私が彼女のそばに寄って『おはよう』って挨拶したとき、彼女、私と距離を置いたんですよ? 以前までは、そういうことは決してしませんでした。」
有治「気のせいじゃないですか?」
章太郎「いいえ、気のせいじゃありません。たしかに彼女は、私と距離を置くようになったんです。」
有治「だとしたら、何でしょうね。やっぱり、倦怠期とかですかね?」
章太郎「ケンタッキー?」
有治「違いマス。ケンタイキです。飽きてしまう時期のことです。」
章太郎「ああ、これは失礼。」
有治「そういう時期は、夫婦になればよくあることですよ。僕の場合も、実は恵さんに飽きていたといいますか、距離を置きたい時期はありましたから。」
章太郎「そうですか。」
有治「はい。だから、時間が経てばまた元通りになるんじゃないですか?」
章太郎「いや、私はそうは思いません。もしもそれが単なるケンタッキ……じゃなくて、ケンタイキ? そういう時期にあるとしたら、別に有治さんの名前を聞いただけで、あんなに目をキラキラさせるとは思えないですよ。」
有治「そうですかね。」
章太郎「たぶん、彼女の中にはまだ、あなたのことでいっぱいなんですよ。」
有治「さて、どうなんだか。」
章太郎「いや、間違いないですよ。でなければ、なんであなたの名前を聞いただけで、あんなに明るい表情をするんですか。普通は真逆のはずです。キライだった夫を思い出せば、普通は暗い表情になるはずでしょう。しかし、彼女は違う。彼女は、あなたのことを思い出すたびに、どんどん表情も振る舞いも明るくなっていってるんですよ。それは何を意味すると思いますか?」
有治「さあ、わかりません。」
章太郎「恵さんが、まだあなたのことを忘れていないんですよ。」
有治「……そんなまさか。」
章太郎「いや、そうだと思いますよ。だって、昨日あなたは、このベランダで彼女を食い止めたじゃないですか。きっとそのことが、彼女の記憶に焼き付いているんだと思うんです。」
有治「……。」
章太郎「有治さん。もう一度、恵さんと話し合う気はありませんか。」
有治「え?」
章太郎「もう一度、彼女と話し合う気はありませんか? 3人で、ここで話し合いをしたいんです。これからどうするのかを、改めて。」
有治「それは……」
章太郎「できませんか?」
有治「……あなたは、それでいいんですか?」
章太郎「どういう意味ですか。」
有治「いや、あなたを見てると、どうも何というか、他人である僕にやさしすぎのように思うんですよ。」
章太郎「はあ。」
有治「どうして、そんなにお人好しでいられるんですか」
恵、赤子を抱えて客席に登場。
彼女は立ち止まり、上のほうを見上げている。
章太郎「……私だって、正直辛いですよ。しかし、もとを正せば、そもそも私は単に、仕事で相談相手になってただけなんです。ホストクラブの仕事の延長線上に、彼女の相談に乗ったり、家の手伝いとか子供のお守りとかをしてただけなんです。『恵さんのことが好きじゃない』といえば、それはウソになります。しかし、私が本当に大切にしたいのは自分の欲望なんかじゃない。恵さんに幸せになってもらうことこそが、私の、本当の幸せなんですよ。」
有治「章太郎さん。」
章太郎「自分の欲ばかりで走る男なんて、サイテーじゃないですか。」
有治「……世の中には、あなたのような、性格のいい人もいるんですね。」
章太郎「私だけではなく、たいてい人間なんて、根は性格がいい人がほとんどですよ。ただ、みんな恥ずかしくて、それを隠しているだけで。」
有治「そういうもんですか。」
章太郎「ええ、そういうもんですよ。」
有治「そうですか……僕は、物事を悲観的に、見過ぎていたのかもしれないですね。」
章太郎「……。」
間。
章太郎「話し合いましょうか。」
有治「え?」
章太郎「恵さんの未来について、3人で話し合いましょう。」
有治「……はい。お願いします。」
章太郎「では、恵さんに電話しますね。」
有治「いろいろとすみません。」
章太郎「いえいえ。」
章太郎、スマートフォンを取り出して電話をかける。
着信音。
恵、電話に出る。
恵「もしもし。」
章太郎「もしもし恵さん。私だよ、章太郎。いま時間は空いてるかな?」
恵「うん、大丈夫だけど。どうかしたの?」
章太郎「ああ。君のこれからのことについて話をしたいんだけど、いいかな?」
恵「えっ?」
章太郎「君のこれからのことについて話をしたいんだ。いいかな。」
恵「え、ああ、うん……大丈夫だよ。」
章太郎「すまないね。」
恵「いえ。」
章太郎「それじゃあ恵さん、率直に聞くね。君、まだ有治さんのことを想ってるんじゃないか?」
恵「えっ? どうして。」
章太郎「いやぁ、私の勘違いだったらすまない。ただ、今日の恵さんは今までの君と違って、ずいぶんと変わってしまったと思ったから。」
恵「そんなに変わった? 私。」
章太郎「ああ。なんか、以前までと違って、私と距離を置くようになったじゃないか。」
恵「それは……」
章太郎「正直に話してごらん。怒ったりしないから。」
恵「……私、その。」
章太郎「うん。」
恵「……私、実は、また好きになっちゃった。有治さんのことが。」
章太郎「そう。」
恵「あんな有治さん、今まで見たことなかったから。私をかばってくれて、人目を気にせずに、自分の気持ちを素直に話してくれて……あの人の言葉を聞いた時、なぜか私、すごく安心したの。『ああ、私は嫌われてなんかなかったんだ』って、初めて実感したの。」
章太郎「そう……やっぱり、そうだったんだね。」
恵「以前までは、有治さんへの想いが重荷になってた。どんなに甘えても、どんなに好きだと思っても、彼は気づいてくれなかったから。時々、有治さんは私のことがキライになったのかなって、本気で思ってた。」
有治「恵さん……」
恵「でも、昨日の出来事で改めてわかったの。私、やっぱり有治さんのことが、好きなんだって。あの人のことがどうしても、忘れられないんだって。」
章太郎「なるほど。」
恵「でも、今はもう離婚を決めたから。諦めなくちゃ」
章太郎「どうして。」
恵「だって、今はあなたがいるから。」
章太郎「……恵さん。そういうふうに、私を想ってくれているのは嬉しいよ。正直、君を手放したくなんかない。」
恵「章太郎さん。」
有治「(必死に章太郎の袖をつかむ)」
章太郎「(有治に合図をして)……だけど恵さん。私のせいで、恵さんのその想いを踏みにじりたくはないんだ。」
恵「そんな、章太郎さんは踏みにじってなんかないよ。」
章太郎「いや、以前は違っていたかもしれない。けど、今は明らかに踏みにじってるでしょ。」
恵「そんなことないよ。」
章太郎「君にこれ以上、無理をさせたくはないんだ。」
恵「……。」
章太郎「恵さん。君は、本当にいろんな苦労をしてきたと思うよ。だからこそ、これからの人生は、君に幸せに歩んでほしい。もしも君が私のことを想ってくれていたら、私は精一杯、その想いに応えたいと思ってる。けど、もしも君が少しでも有治さんのことを想っているとするなら、私は君と、一緒に暮らすつもりはない。」
恵「……どうして。」
章太郎「どうしてって。君に幸せになってもらいたいからだよ。後悔してほしくないからだよ。」
恵「私、後悔してなんかないよ。」
章太郎「今はそうかもしれない。でも後々になっても後悔しない自信はあるのかい?」
恵「それは……」
章太郎「私はイヤなんだ。恵さんを、縛り付けたくなんかないんだ。」
恵「縛り付けてなんかないよ。」
章太郎「だったら、どうして距離を置くようになったんだい。」
恵「それは……」
章太郎「本当は、まだ有治さんのことが忘れられないんでしょう?」
恵「……。」
章太郎「わかるよ。昨日、彼は君の自殺をいち早く止めてくれた。今までそんなことをしてもらった経験はなかったんだろ?」
恵「……。」
章太郎「自分に正直になってほしい、恵さん。私は何より、君が幸せになることを、本気で祈ってる。」
恵「……私のこと、キライになったんだ」
章太郎「違う、むしろ大好きだよ」
恵「だったらどうして。」
章太郎「だからこそだよ。」
恵「えっ?」
章太郎「だからこそ、君には、一番好きな人と一緒になってほしいんだ。」
恵「章太郎さん……あなたは本当に、やさしいんだね。」
章太郎「……有治さんに、代わろうか。」
恵「有治さん、近くにいるの?」
章太郎「ああ。いるよ。代わろうか?」
恵「いや、でも電話代が……」
章太郎「電話代なんていいよ。気にしないで。」
恵「でも……」
章太郎「彼に代わろうか?」
恵「……じゃあ、お願いします。」
章太郎「了解。」
章太郎、有治のほうを向く。
有治は頷き、スマートフォンのほうに顔を近づける。
恵は、観客席で舞台に向かってゆっくり歩きはじめる。
有治「もしもし。」
恵「もしもし。」
有治「……元気にしてる?」
恵「うん。まあね。」
有治「そ、そう。」
章太郎「(すごく咳払いをする)」
有治「(章太郎のほうを向く)」
章太郎「……。」
有治「……恵さん、もしも、もしもこんな僕でよかったら、もう一度やり直さないか?」
恵「えっ?」
有治「僕、君と一緒に生きていきたいんだ。君を幸せにしたいんだ。もう、君を悲しませたりはしない。約束だ!」
立ち止まる恵。
恵「……ありがと。ありがとう……」
有治「今、どこにいるんだい?」
恵「……鶴舞公園。」
有治「鶴舞公園か。よしっ。それだったら、僕も今からそっちへ行くよ。」
恵「え?」
有治「僕も今からそっちへ行く。そこでしばらく待ってて。すぐ行くから。」
恵「うん!」
有治「それじゃあ、切るね。」
有治、通話を切る。
章太郎「ホントに、あなたは幸せ者ですね。本当に。」
有治「いや、たぶん僕一人の力だけでは、本当に離婚することになってました。章太郎さんがいなければ、こういう足元の幸せに気づけなかったんです。」
章太郎「そんな。」
有治「いや、あなたのおかげだ。本当に、どうもありがとう。」
有治、章太郎に手を差し出す。
章太郎、気恥ずかしそうにおそるおそる有治の手を握る。
章太郎「あなたは本当に、いい旦那さんだ。」
音楽。
有治、章太郎、玄関のほうへ退場。
テーブルの上に残されている置き手紙にサスがあたる。
有治、舞台袖から客席に向かって走ってくる。
そして、彼は恵におそるおそる近づき、ゆっくりと抱きしめる。
溶暗。
終わり