日本はたんなるアジアではない
ウクライナにかんする欧米諸国の対応を見ていると、かれらはほんとに戦争が好きなんだなと思う。
「好き」という言葉に違和感があるとすれば、彼らの文化に骨の髄までしみついた、相手に勝つためなら手段を選ばず、また徹底的にやるという恐ろしさや迫力といっていいかもしれない。これはロシアだけではなくウクライナの抵抗からも、さらにはそれを支援する各国の態度からもそれを感じるし、べつに欧米にかぎらずその徹底ぶりというのはわたしが生まれた1975年までやっていたベトナムの抗米戦争を勉強した時にも感じたことである。
民族や宗教、国家どうしの対決になると、本気で完膚なきまでに潰すといういかんともしがたい性癖が彼らにはある。
異文化に負けると一族郎党をはじめ国そのものが完全に殲滅されて死ぬよりひどいことになる可能性がある。だから負けることは絶対にあってはならないという迫力だ。
この迫力というのは戦争以外にも多多感じる。自社の技術を標準化して世界の覇権を握る。スポーツのルールを自分の国に都合のいいように誘導する。温暖化問題の対策を自国の経済が伸びる方向に誘導する。サッカーを見ていればわざと転んで審判の誤審を誘ってまで試合を有利に運ぼうとする。そういう類いのメンタリティの断絶だ。
うまいなぁと思うこともあるが、我が国はじつにそういう覇権争いが苦手というか、根本的に下手だ。
いいものやサービスは作る。目の付け所はシャープだが、それが最後は中国に飲み込まれる国といってもいいかもしれない。技術を活用して世界を牛耳るような権謀術数に哀しいくらい欠けている。
というより、そういう徹底した戦いに元々慣れていない。
韓国によく行く。朝鮮民族というのは自国を攻撃された経験が数百回あるのだそうだ。カウントのしかたはどうにでもなるだろうが、900回以上と書いてある本もあるくらいだから、「数え切れないほど」といっておけばまずまちがいはない。
一方で日本は外国に国土を攻められた経験がどれほどあるかというと、元寇2回と大平洋戦争くらいの話で、太平洋戦争は本土にあっては爆弾が空から降ってくる空襲であったから「外国人の兵隊がやってきて、妊娠しているウチの母ちゃんを蹂躙したあげくぶち殺して腹を割いた」というような凄惨きわまる経験は民族的に経験したことがないのである。
そんなことを考えていてふと思いついた。日本人は自分たちのことを「アジアの国」だと自認しているが、そこが根本的に間違っているのではなかろうか。もちろん場所はアジアである。この「アジア」という言葉自体がヨーロッパから見た「東のほう」くらいの言葉でしかない。その欧州から見た粗雑きわまる地域呼称でしかない「アジア」を自分たちのアイデンティティとして使っている。
しかし日本人はあっさり自分たちのことを「アジア人」などと単純に自認していていいのだろうか。
ひょっとすると、この列島に住む人たちは大平洋の島の先住民族ににたメンタリティしか持っていないのではないか。だから同じアジアのベトナムやアフガニスタンなどに比べると戦争になるととんと弱いし、すぐにだまされる。もちろん日本人(ヤマト民族)も蝦夷地のアイヌを騙して搾取したという歴史はある。しかしそれも歴戦の強者である欧州の民族に比べれば、ヒヨッコも同然だということである。
他国との争いにおいてこのていどのヒヨッコメンタリティしか持たないわれわれが「世界の中のアジア人」と勘違いを起こしたのには理由がある。
明治の開国以来、1億2000万人の人口と高度に工業化され、欧州先進大国と見た目だけは似た国に先住民メンタリティのままウッカリ成長してしまったからである。
この日本列島はとんでもない奇跡の島である。文明の中心である欧米から遠く離れていたり、海に隔てられた大陸との距離が絶妙で漢民族が攻めるのにめんどくさがる距離であったり、元寇から嵐に救われたり、天然資源がなかったりと、地理的・歴史的・自然環境的に幾多の軌跡が重なって先住民族のメンタリティのまま大国になってしまった。
わたしの生活も、日常風景に道端のお地蔵さんや神社があり地域の祭りがある。アニミズム(自然崇拝)の色彩を色濃く残したままだ。一方で工業製品を作ったり輸出入したりする日常をおくってもいると、どうもこの国はあらためて世界に冠たる特殊国家に感ぜられてならない。
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