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日本人の腰抜け性について

 新しく購入した新明解国語辞典でなんとなく「忖度(そんたく)」という単語を調べてみた。

そんたく【忖度】
〔「忖」も「度」もはかる意〕自分なりに考えて、他人の気持をおしはかること。「相手の立場や気持ちを──する」〔近年、特に立場が上の人の意向を推測し、盲目的にそれに沿うように行動することの意で用いられることがある。例、「政治家の意向を──し、情報を隠蔽する」〕

 もともとの意味のあとの最近加わった意味に注目していただきたい。じつはもともと、忖度という言葉に盲目的に目上の人の意向を勝手に代行するなどという腰の抜けた意味はなかったのである。たんに「相手の意向を想定する」という意味だったのだ。最近使われているのはおもに、目上の相手にたいし、相談や議論をすることもなく勝手に貧困な想像をめぐらして行動し、本意ではない悪行を重ねてしまうことだ。
 言葉は必要にせまられて生まれ、また変わる。常に人や世の中がさきに変わり、言葉がそのあとだ。「忖度」に新しい意味が付け加わり2017年に新語・流行語大賞まで取ったのは、それが近年の日本人に必要だったからだと考えてよい。もしくは世の中にそういう事例があまたあったために7年後の今も使われ続けていて、これは一時の流行ではないことがわかる。
 この言葉がもともとの意味をわざわざ変えてまで使われるようになった日本のいまの世相とは一言でいうと「腰抜け」である。
 上役がほんとうに考えていることとは別に、勝手な想像で上役の考えていそうなことを想像して実行してしまう。空気に飲まれやすく、強いものにたいして卑屈なまでに弱く、議論を避け、なあなあ、な生きかたに偏し、まわりへの同調ばかりしてメダカの群れのように生きていく。
 「やらなければならないことは分かっている。とはいえ……」「不正であることは分かっている。とはいえ……」「やりたいことはほかにある。とはいえ……」。これを「とはいえ精神」とわたしは呼んでいる。居酒屋談義でさんざん青臭い議論をしたあと、「とはいえ食っていかなきゃいけない」などと、明日の食料費に不自由もしていない人間が逃げを打つ。それまでの話をうやむやにする腰の抜けたあの態度。
 自動車販売のビッグモーター社が街路樹を切ったのも同じ構図であったろう。どこの会社の上司が、店の前の街路樹を切れなどと指示するものか。
 斎藤元彦兵庫県知事のパワハラ疑惑では、知事の態度のひどさをわたし自信が県職員から耳にしたことがあった。もとよりわたしにはその真偽を確認するすべもないし、それよりグチなど言ってないで県職員なのだから自分たちで意見をすればいいのだが、そういうことがこの「とはいえ国」においては徹底的にむつかしいのであろう。
 今のところ、政治家や実業家も小物ばかりなのでこの国は難を逃れている。しかしひとたびヒトラーのような大物のサギ的人物があらわれたらどうか。いまの腰抜け日本人は「いやあ総統、それはいかにもムリ筋じゃありませんか」と言える人間がどれほどいるだろうか。
 ヒトラーに比べるとあまりに小物だがNHK党(現みんなでつくる党)の立花孝志みたいなポピュリストがたまさか大衆の支持を得て人の上に立ったとき、この国の人々はおそらくモノが言えなくなり暴走を許すだろう。
 これは、ホロコーストで大量虐殺を推進した人間がごくごくつまらない矮小な人物だった「イェルサレムのアイヒマン」事件と相似だ。世の中でもっとも大きな愚行や悪行がおこなわれる原理は、腰抜けで定見のない人々がたくさん集まったとき、である。

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