見出し画像

その生き方はまるで⑤‐めざす包摂の姿

 ちょうど生き方の内省を深めている時期にフェイスブックに日々あがってくる投稿から違和感を感じていた。それは、この間のソーシャルセクター業界の動きをみながら感じた「違和感」で、この数年ずっと感じてきた問題意識でもあった。それを言語化することで「次の具体的な方向性」が見えてきた。(批判ではなくあくまで個人の振り返りとして。)

 「きれいなソーシャルセクター」の多くは支援対象範囲を拡大し、そのときどきのトレンドとなる言葉、例えば「コレクティブインパクト」などとともに広い範囲で比較的届けやすい層に届けることで見えやすい数字が出る。それはメディア等の注目を集め、そこに企業や休眠預金、国事業等の財源のマッチングが生まれることでさらに大企業化していく。(外から見るときれいなセクターに見えて実は泥臭く丁寧にされているところももちろん知っている。)
 ただ、届けたつもりで届いていない部分には潜在的な「声なきSOS」があり、そこは社会の中でほぼスルーされている。そして、数多くのとりこぼれている人たちの姿がみえてきた。

「地域福祉は、差別や偏見の問題に向き合わずして、きれいごとでは済まされない。」(原田正樹2014『地域福祉の基盤づくり』中央法規出版)。
 
 この言葉は自分を鼓舞してくれた言葉でもあるが、社会の中に長年ある差別や偏見の問題などは実は周縁化されていて、多くのソーシャルセクターの企業家がそのことに無意識・無頓着(そもそも知らない。)
「社会課題」の解決をする!というミッションを熱意をもって謳う一方で日本社会が長年抱えてきた差別などのディープなところには目をつぶっている。
 そうするとそうした「大企業」が動けば動くほどに届きやすい層には届く(それそのものにも必要とする人に届いているという意味はあるが)一方で、周縁化されたマイノリティをはじめとするさまざまな背景を持つ当事者はこぼれ続ける。これはネイティブアメリカン居留区で長年見てきた現実と重なる。
 
「果たして自分がめざす“包摂”はそこなのだろうか?」

 
 その違和感を言語化することで次の方向性が見えてきた。
 長年の社会運動性を底に持ち、地域に根づいた実践を通して「SOSを見捨てない」アイデンティティや理念をもつ団体としてできること。
 富田地区に地に足をつけて泥臭く根づきながらも市域(中核市)レベルに実践を汎用させ、民と民、官と民による幾層にもわたる支援の層を生み出し仕組みを創る。かつその「ひな形」をメディアや学術分野でフロントランナー実践として全国に発信する
 そのことで「マイノリティをはじめとしたこぼれ落ちやすい層」こそ取りこぼさない社会を生み出す。
 それが2021年から取り組んできた「居場所の包括連携によるモデル地域づくり」の次のビジョンとして見えてきた。

 そして、それを実践と研究の往還を通じて追及したい、そんな思いが湧き上がってきた。
 
 これは自戒もこめた問いでもある。

いいなと思ったら応援しよう!