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私の好きな戦略家ランキングベスト10
おはようございます。週一で通っていた温泉に行きたくてうずうずしてるアルキメデス岡本です。
という訳で、今回は私の好きな戦略家ランキングを発表します。
ちなみに私が好きな研究テーマは、戦国時代や戦史における軍事戦略です。如何にして歴史的人物は、勝利を手に入れる為の戦略を実行してきたのか!?まだまだ長くて広い世界の歴史を調べきれていませんが、私の知識の及ぶ範囲で独断で決めさせて頂きます。
10位
秋山真之
9位
黒田官兵衛
8位
真田幸村
7位
東郷平八郎
6位
豊臣秀吉
5位
徳川家康
4位
織田信長
3位
クラウゼビッツ
2位
ナポレオン
そして栄えある1位に輝いたのは、、、、、
1位
明智光秀
何故、明智光秀が1位なのか?
明智光秀は本能寺の変を起こし、その後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗北し死亡したというのが通説である。この説で見た場合、明智光秀を優秀な戦略家と評価する人はほとんどいないと思います。しかし、私の評価ではランキング1位を獲得しました。その理由をこのように考えています。
明智光秀は本能寺の変で主君「織田信長」を討った。この事件は日本の歴史的大転換であり、その後の日本の方向性を変えた。秀吉に敗れ歴史の表舞台からは消えたが、自らの命を賭けて織田信長の野望という革命路線を止めた。その後、豊臣秀吉が天下人になり朝鮮侵略を進めるが、豊臣秀吉の死去によってその夢は幻に終わった。秀吉亡き後、徳川家康が天下人となり、徳川幕府の長期政権と安定した平和が持続されました。もし、明智光秀があの時、本能寺の変を起こしていなければどうなっていたでしょうか?
おそらく、織田信長が天下統一し強大な軍事拡大路線を進め、海外のアジア諸国に侵攻。部下であった豊臣秀吉も徳川家康も天下人にはなれずに終わったでしょう。その後もアジア諸国に侵攻を繰り返しながら、織田信長を頂点とする絶対君主制の国家体制に変容した。その結果、アジアの植民地化政策を掲げたスペイン、イギリス軍などとの全面衝突が起こり、日本は早い段階で西洋列強に支配されていたかもしれません。織田信長の登場は日本の歴史において近代化の先駆けと評価されていますが、逆に明智光秀がいなければ安定した徳川幕府の誕生もなく日本の国民は文化的にも成長しなかったように思います。
そういう意味から、国家100年の計という観点から見た場合も含め、明智光秀を日本の長期的展望を持った大戦略家と評価しました。当の本人がそこまでの長期的な大局観を持っていたかは分かりませんが、結果的に日本は太平の世となり明治維新まで約300年もの間、内戦を起こさず平和を享受しました。また、明智光秀は天海という僧侶になったという説もあながち否定はできないので、徳川家康と同盟を裏で結びながら生きていたのかもしれません。もし仮にそうだったとしたら、これまでの明智光秀の低評価では収まりきらないのも理由のひとつです。
また、戦略家を評価する上でポイントになる点としては、一時的な勝利や個人的に長く生き延びたというよりも、戦いに敗れ個人の寿命がたとえ短く終わったとしても、結果として国や国民に平和と安定を長くもたらしたかという点を重視しています。そのような意味から、明智光秀のとった一つの行動がその後の日本の歴史を大きく変えた事は紛れもない史実です。
ナポレオンと明智光秀の共通点
古今東西さまざまな英雄がいますが、ナポレオン・ボナパルトの名前が挙がらないことはまずないでしょう。
貧乏貴族の息子にすぎなかったナポレオンは、フランス革命という時代の流れにのって、皇帝の地位にまでのし上がります。そしてフランス革命の思想とともに、ヨーロッパ全域に力を及ぼしました。革命の思想をバックにしつつも自らを皇帝としたナポレオンの行動は矛盾していますが、同時に絶対王政を「解体」し、ヨーロッパ全土に革命の精神を近代共和制国家の礎を「創造」する大きな役割を果たしたのです。世界的な戦略家として名高いナポレオンも勝利の快進撃が終わった後は、皇帝の身分を剥奪され追放されました。最終的には敗北したわけですが、ヨーロッパの歴史上の評価としてはトップクラスだと思います。そのナポレオンと明智光秀には共通点があります。それは、絶対王政を解体し新たな国家の礎を創造したという点です。
ナポレオンのの業績は一言では語れませんが、古い時代を「解体」し、新しい時代を「創造」する役割を果たしたことは確実です。なかでももっとも大きな影響は、フランス革命の精神をヨーロッパ全土に広めたことでした。本人が皇帝になり、親族による大陸統治という絶対君主制的な政治をしたにもかかわらず、歴史の大きな流れの中では、ナポレオンは確かに近代共和制国家の種を各地に植えて回っていたのです。
ナポレオン亡き後、欧州各国は絶対君主制を復活させようとウィーン体制と呼ばれる前時代的な支配を試みますが、一度芽吹いた自由と平等の精神は、弾圧に屈することはありませんでした。ウィーン体制は1830年にフランスで起こった七月革命、1848年の二月革命、同年ベルリンとウィーンでおこった三月革命によって幕を閉じます。ナポレオンという英雄は自ら皇帝になりつつも、結果的には絶対君主制を「解体」し共和制を「創造」するべく、ヨーロッパの地ならしをしていたのかもしれません。
明智光秀の場合も、織田信長という絶対君主制を「解体」し日本型の共和制を「創造」するべく、本能寺の変を起こしたと考えられます。織田信長自体も天皇という絶対君主制を解体しようとしていましたが、それは織田信長の野望という絶対君主制にとって変わるだけで民主的な共和制ではなかったと思います。明智光秀の考える共和制は国民の意思を尊重した優しい国家像でした。その意思は、徳川家康に引き継がれ、江戸を中心とした都市国家は現代の東京と日本の礎となっていきました。
戦略は歴史から学べ
戦略とは
クラウゼヴィッツは、「戦争とは完結した個々の戦闘の集合体である」と定義し、「戦術=個々の戦闘を計画し、個々の配慮で遂行すること」、「戦略=戦争の目的に則して、個々の戦闘を束ね、統制するもの」と定めた。つまり、「戦術=武力の使い方」であり、「戦略=戦闘の使い方」と分類できる。彼はまた、戦略は、その場で細部を決定したり、計画全体に修正を施すことを可能にするために、必ず現場で策定されるべきと説いた。
言い換えると
戦争: 不確実な状況で暴力によって、政治目的を達成すること
戦略: 偶然を制し、政治目的を達成する為の継続的な個別の戦闘の運用・進め方
ということになる。
リーダーの存在
戦争に勝つ為には、優れたリーダーの存在が不可欠である。クラウゼヴィッツによれば、戦略の天才とは、複雑で不確実性の高い環境下でも、常に最適な戦略を的確に見抜く能力をもつ人のことである。優れた戦略を策定するには、両極端の選択肢を論理的に考える高度なアプローチと、勇気や決断力を兼ね備えたリーダーが必要だと言っている。いわば、優れた指揮官に求められる独特のセンスとでも言うべきもので、クラウゼヴィッツは、武徳、勇敢、忍耐力、自制心などを特に重視した。クラウゼヴィッツが念頭に置いたリーダー(天才)とはもちろん、ナポレオンのことである。
この考え方はカリスマ的リーダーシップ理論の考え方に近い。型にはまったこれまでの理論にこだわるよりも、天才が現場で発揮する能力を高く評価するのである。高度な戦略策定能力はリーダーとして必須の資質だが、実際にはそれを運用する人物の、個々の現場における決断力、意思決定が最優先されるべき、とクラウゼヴィッツは説いている。
基本原則
クラウゼヴィッツは、戦争の計画を全体的にカバーし、かつ、あらゆるものの指針として役立つ基本原則を2つ挙げている。
原則1 攻撃を出来るだけ集中的に行う事
原則2 出来るだけ迅速に行動する事
ビジネスの世界に置き換えると、自社の強みに集中し、特化していくこと、そして可及的速やかに行動を起こす事、となる。
戦略とは、言ってみれば、勝てる喧嘩しかしない、ということである。従って、どういう喧嘩なら勝てるのかを真剣に考える事が戦略策定の基本となる。自社の常識、業界の常識を全て取り払い、ゼロベース思考で徹底的に洗い直すことが有効となる。
また、戦略とは単に戦争に勝利するだけのものではなく、長期的な歴史的観点からみて、その国や国民にとっていかに幸福をもたらしたか、言うなれば「長期的な政治目的が達成されたか」という点が重要なポイントなのである。