私と、父の死
1年半ほど前、父が他界した。
酔っぱらって帰宅し、入浴中に溺水したとのこと。自宅で発見した母のショックは計り知れない。
身内が亡くなると、することがたくさんあり、悲しむ暇もないとはよく聞いていた。私ももちろん、姉の家族や夫達とバタバタしながら遺品整理や財産の確認、そして生後半年の娘の世話などに忙しんだ。
1週間程で、夫は自宅へ戻った。年末まであと一ヶ月ほどだったので私と娘は、一人になった母のため、残りの片付けなどをするために実家に残った。それからも自宅にお参りに急な来客があったり、様々な手続きがあり落ち着かない日々が続いたが、ふと訪れた平穏な日に、あれ?と気づいた。
私、一度も泣いてないな?そして、悲しいと思ってないな、と。
私はお父さんっ子で、どちらかといえば神経質気味の母よりも、大らかな父によく懐いていた。
幼年期は家族で大きな公園へ行ったり、旅行の思い出もあり、出張が多く不在のときもあったが、よく遊んでくれたいいお父さんだと記憶している。
父の日や誕生日に工作で作ったプレゼントを渡すと、すぐに捨てる母に反して、喜んで使ってくれる父が好きだった。
私が中学生くらいになると、父と母は酔っぱらってよく口論をしていた。中学生の自分が聞いていても的を得ていない口論で、「そんなこといったってしょうがないじゃないか」と私の中のえなりかずきが叫んでしまうような水掛け論ばかりでうんざりしていた。そしてお互い酔っぱらっているので、次の日には何も覚えておらず、うるさいだけの不毛な時間となるのだった。
父は気さくで話好きだが、人の話の腰を折ることがよくあった。余計なチャチャを入れたり、どうでもいいところに食いついて、相手の話を最後まで聞けないのだ。話手側としても、話のオチまでもっていけないのはストレスが溜まる。
母もストレスを感じていたのか、父に対する当たりが強くなり、すぐ口論になることが増え、夫婦仲は良くなかった。
年齢を重ねるごとに、父の話は長くなり、オチもなく話の方向がわからず、人の話を遮る頻度は増え、冷蔵庫に入った明日用のおかずを食べ、孫のおやつを必ず1口よこせと言い、耳は遠くなり、勝手に勘違いしては怒り、車の運転は不安定になり、小さい事故を何度も起こしたが反省する様子もなかった。電車内で飲酒し、駅で他人と口論になったこともあったらしい。そんな父の姿は確実に「老害」へと近づいていき、母はもちろん、私や姉も父を蔑むような態度をとるようになっていった。
その一方で父に対する母の当たりの強さも異常だと父を擁護する気持ちも持っていた。更年期ということを考慮しても、常にイライラしていたし、口を開けば父を責め、小言を言う母も母だ、と。
母の当たりの強さの理由を知ったのは、私が20歳を過ぎ、一人暮らしを始めた頃だっただろうか。
どうしてその話になったのかは記憶にないが、とにかく私は、父がずっと浮気をしていたことを知った。
父は隠そうとも思っていないのか、毎週決まった曜日に、飲み会だと嘘をつき、深夜か明け方に帰宅する。その際に上着のポケットにホテルのレシートと、ホテル街のコンビニでつまみと酒を買ったレシートを必ず入れているのを母が発見し、チェックしていた。
手帳を開けば彼女のイニシャルとその日にあったことが記載されており、ロックも何もされていない携帯を開けば、彼女のイニシャルとホテルで待ち合わせをした日時が残っており、完全なクロだった。また、互いの孫の写メまで送りあっており、気持ち悪さを感じた。私は、母の当たりが強すぎて老年不倫をしているのかと思ったが、母が言うにはもっとずっと昔、私が産まれる前からだと言っていた。(母が気づいたのはもっと後らしいが。)
ある日、また話の流れは忘れたが、母と姉と私で父の浮気を本人に問うことがあった。
その時の父の発言は
「水商売の女との浮気なんて浮気じゃない」
「女ここに呼んでみんなで話すか?」
「怒ってくれるってことはお前(母)は俺のこと好きでいてくれてんのかー、嬉しいなぁ」
と、とにかくヘラヘラし、話にならなかったため、私はますます父を軽視した。
時は流れ、私は結婚して遠方に行き、出産して母になった。
自分が親になると、今までになかった目線で物事を見られるようになり、親もこんなに自分に愛情を持って手をかけて育ててくれたんだなと感じられるようになるもので、私も例外ではなかった。少し長めに帰省し、両親に孫のかわいい姿を見せたいと思い実家へ帰った。娘を抱いてかわいいねと喜ぶ両親の姿を見て嬉しく思った。
しかし、娘の目の前でフラッシュをたいて写真を撮ったり、熊よけの鈴を耳元で鳴らしたりと父の奇行は続き、夜中まで私が寝かしつけをしている部屋の横で酔っぱらい、大音量でテレビを見ている父にイライラもした。そして、私が帰省している間にもまた小さな事故を起こした。
その年の春、池袋での悲しい事故が起こった。私も母も、免許証の返納を勧めた。ついでに酒の量を減らすようにも勧めた。
すると父は
「老人の小さな楽しみを奪うなんて、俺に死ねって言ってるのか!?」
「今まで事故は起こしたけど人は轢いていない」「誰が運転したって事故は起こる」
「ニュースは全部、老人が悪いみたいに伝えていておもしろくない!」
「俺が事故を起こしたらお前達が困るってことだろ!お前達は自分のことばっかりだ」
と、話が通じない返事のオンパレード
このままでは父が加害者になるかもしれない。絶対に止めないといけない。もう、誰かを殺してしまう前に早く死んでくれたら助かるのに…
その年の秋に父は死んだ。
悲しくなかった。ホッとした。
そして、大好きなお酒で酔っぱらって、お風呂で気持ちよく眠ってそのまま死ねるなんて羨ましいと思った。最高の死に方だと思った。
知人に父の死を告げると、皆、神妙な面持ちで慰めてくれるが、私はヘラヘラしていたので、知人達の目には人でなしの娘のように写ったであろう。
自分でも人でなしだと思う。
でも私は父の愛情を感じて育ったし、父のことは好きだった。
今年、息子が産まれ、会わせたかったなとも思う。
悲しくはないが寂しい気持ちはある。
老いていくことは、今まで当たり前だったはずの自分が自分でなくなってしまったり、家族に死を願わせてしまうこともある。
どんな老い方をしていきたいか、父を反面教師にしつつ、私もゆっくり老いていきたいと思う。
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